博物館最新ニュース
2000/03/22
久しく考古学の話題が続きましたが、今日は現在中里町総合文化センター「パルナス」ロビーで開催されている写真展についてお伝えします。

「ふるさと津軽点描」と題された写真展は、おなじみの「フォトグループ 葦」の主催。同グループの会員が切り取った奥津軽の四季や風物詩・人物など、力作揃いの作品が16点展示されています。

入場無料、午前9時から午後5時まで自由に観覧できます。ただし最終日3月24日は、午後3時までとなっていますのでご注意ください。

中里町フォトグループ葦写真展「ふるさと津軽点描」

(「東京・津軽吹雪の会」-総会特別展示アンコール展)

会 期:3月10日(金)〜3月24日(金)9:00〜17:00(最終日は15:00まで)

主 催:フォトグループ葦

後 援:中里町教育委員会

2000/03/18
古代(飛鳥〜平安時代)の北日本においては、末期古墳もしくは終末期古墳と称される埋葬遺構が盛行します。小規模な墳丘部と、土壙や礫槨などの主体部から構成されるもので、円形の周溝を巡らしたものもみられます(とくに後者を周溝墓と呼んで、前者と区別する場合もあります)。

青森県では、八戸地方に集中的に分布し、獅噛式三塁環頭大刀柄頭を出土した丹後平古墳群鹿島沢古墳群などが著名です。

一方津軽地方では、昭和63年(1988)尾上町の原古墳群が、葛西励高橋潤両氏の指導の下、青森山田高校によって調査されています。8世紀代と推定される円形周溝墓が3基と、竪穴住居が1棟検出されていますが、今日紹介するのは竪穴住居の覆土中から出土した2点の石器です。

1点は石核状の形態を有し、もう1点は小型円形掻器もしくはラウンドスクレイパーと称される石器で、青森県史編纂室の山口義伸氏によってこのほど黒曜石製と判断されました。ラウンドスクレイパーは皮なめし等に用いられたものと推定されており、北大式期(4〜6世紀)の土壙墓に副葬される例が多いほか、近年は7世紀代の終末期古墳からの出土例も知られています。

仮に原遺跡出土のラウンドスクレイパーが、8世紀代と推定される竪穴住居に伴うものだとすれば、かなり新しい時期の共伴例となります。当該期は完全に律令文化が定着したと考えられる時期ですが、縷々続縄文文化の伝統が残されていたのでしょうか?覆土中からの出土ということで、いまひとつ所属年代がはっきりしないものの、古代の津軽地方に暮らした人々の性格を考えるうえで興味深い資料であることには間違いないでしょう。

竪穴住居から出土した土師器 発見者の葛西先生 鑑定中の山口先生
2000/03/11
それにしてもここ2〜3日の天候の凄まじさ・・・。天地咆哮、視界途絶、道路は防雪柵のない部分では深雪に足を取られ、設置されている部分は鏡の如く滑りまくる。ニュースでは、青森空港も旅客機のオーバーランで閉鎖されたとか?
中里町文化センターも地吹雪に痛めつけられご覧のとおり。本当に3月の天気は油断ならないと思います。こんな悪天候の10日午後、はるばる青森市より「青森県の擦文土器」展に足を運んでくれた方々がおりました。

その命知らずは、平川南(国立歴史民俗博物館教授)・鈴木靖民(國學院大学教授)・横山英介(七飯町教育委員会)・工藤清泰(浪岡町史編纂室)氏等、本日開催されるシンポジウムのパネラーを務める諸先生方をはじめ、弘前大学の藤沼先生など10人余りです。

そのシンポジウムとは、本日13時より青森県総合社会教育センターで開催される縄文講座「北の古代文字世界」野木遺跡から出土した墨書土器についての基調講演を始め、古代北奥羽の文

字文化についての討議が繰り広げられます。同時に青森市から出土した埋蔵文化財展(12:00〜16:30)も併催されます。本日は、写真のように天気も上々。古代に関心のある方は、すべからく社教センターへ。

なお、同シンポジウムについては、相馬さんの「青森歴史探訪」で詳しく紹介しています。都合で来られない方に対しても、資料等送付してくれるみたいですので参照してみてください。

2000/03/5
前回に引き続き、秋田県出土の擦文資料を紹介いたします。写真の土器群は、大館市上野(うわの)遺跡から出土したもので(後列左から擦文土器甕2点、土師器甕1点、前列土師器把手付土器2点)、現在は大館郷土博物館に収蔵されています。
これらは、同遺跡における唯一の平安時代の竪穴建物、SI40竪穴住居跡より出土したもので、ほかに刀子砥石などが共伴します。擦文土器甕は、胴部をハケメ整形した後口縁部に横走沈線を巡らすもの、また土師器甕は内湾する形態を有し、外面は荒いヘラケズリで整形されています。把手付土器はいずれもケズリ整形で、1点は砂底、もう1点はスダレ状圧痕がみられます。胎土は、多量の砂粒が含まれる擦文土器に対して、土師器は小礫の混入が目立ちます。

重要なのは、上野遺跡が擦文土器を出土する南限に位置する遺跡の一つであるとともに、出土遺物群の共伴関係が確実視できるケースであるという点です。とくに遺物群の構成は、約20q北方に位置する青森県碇ヶ関村古館遺跡をはじめとする津軽地方のものと相似しており、おそらく擦文土器や土師器の終末期、11世紀代に位置づけられるものと思われます。

それにしても、胎土から形態・整形技法に至るまで、当該期の津軽地方の土器群と実によく似ていますが、これは古代に限定されるわけではありません。擦文土器の借用に出向いたついでに、大館郷土博物館の常設展示室も見せていただきましたが、約5,500年前の円筒下層式土器から連綿と約1,000年前の土師器にいたるまで、土器様相がほとんど一致しています。案内していただいた学芸係長板橋さんが、「大館までは津軽です!」と断言されていたのが印象的ですが、実際中里町の展示室を眺めているような不思議な感じがしました。

ところで、大館郷土博物館は、旧校舎を改築した小綺麗な建物で、市史編纂に伴って収集した資料を中心に展示しています。考古・歴史資料は、体育館のような広いスペースに展示されており、ゆっくりと見ることができます。高速道路を使わなくても、弘前市から車で40分程度の近距離ですので、ぜひ行ってみましょう。

2000/02/29
今日は、冬の企画展にも出品している変わり種の土器を紹介いたします。「刻文絵画土器」と称されるこの土器は、昭和58年(1983)鹿角市教育委員会藤井安正氏によってはじめて紹介されました(藤井安正 1983 「鹿角市中花輪遺跡出土の刻文絵画土器」考古風土記8)。

同報告によれば、 阿部 新氏(鹿角市上花輪在住)の宅地造成の際に出土したもので、10世紀代の土師器甕・坏をともなっています。大きく外半する口頸部外面に数条の横走沈線と斜格子状文、内面にはシダ状の刻線文様が施されています。シダ状の刻線文様は胴部にも施され、特異な印象を際だたせています。

形態的には7〜8世紀ころの土師器に類似しますが、胎土や焼成・整形などは平安時代の土師器に類似し、仮に先の土師器に共伴するものとすれば10世紀代の年代が考えられます。ただし、10世紀代の土師器に、このような器形や文様を施す甕は見当たりません。あるいは同じころに盛行する擦文土器のモチーフを模倣して製作されたものでしょうか。疑問は募るばかりですが、類例の報告を期待しつつ写真を掲載いたします。

2000/02/21
あけましておめでとうございます。気がついてみれば、2000年に突入してからはや1ヶ月余り。月日はあっという間に過ぎ去って、とどまるところを知りません。外はぽかぽか陽気で、研究室においてある鉢植えの桜といえば、先週からすっかりと満開状態・・・。

北緯41°の冬とは思えない日々が続く中、ひさしぶりの更新です。今日は既に始まっている冬の企画展「青森県の擦文土器」の模様についてお伝えいたします。「擦文土器」とはなんぞや?と思われる方も多いと思いますが、詳細についてはこちらをごらんください。

一口に言うと、弥生土器の系統をひく土師器と、縄文土器の伝統を残す北海道系の続縄文土器が、お互いに影響を及ぼし合いながら誕生した土器です。生まれ故郷は北海道ですが、平安時代には青森県下にも出現します。北海道生まれの土器が津軽海峡を越えた青森県で発見されるという意義については、いろいろな見解がありますが、両地方の積極的な交流を裏付けるものであることは間違いありません。

そろそろの季節も終わりそうなこのごろ、地吹雪体験かたがた古代の交流の息吹も体験してみては如何でしょうか。


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