博物館最新ニュース
2000/05/19
今から約百年ほど遡る明治30年代、弘誓寺のある台地西麓の苗代から、直径12pほどの懸仏が出土しました。現在弘誓寺懸仏(中里町指定文化財第6号)として知られる当該懸仏は、揚柳観音を御正体とする鋳銅製のもので、外縁部を一部欠損するものの、状態はおおむね良好です。

揚柳観音は、三十三観音の筆頭におかれる観音で、通常は右手に揚柳枝を持ち、左手を乳の上に当てた二臂像で表現されますが、同懸仏では傍らに揚柳を挿した小瓶も見られます。

平安時代末頃に出現した懸仏は、南北朝から室町時代にかけて盛行し、青森県内では50面ほど確認されています(青森県立郷土館 1990『青森県中世金石造文化財』)。津軽地方では、弘前市周辺、西海岸、十三湖周辺に多くみられ、板碑五輪塔宝篋印塔といった中世の石造文化財の分布に共通する点が多いようです。とくに西海岸・十三湖周辺は、中世安藤氏の支配拠点とされており、同氏が建立した板碑が集中的に残されています。先の青森県立郷土館の報告書においても、弘誓寺懸仏は室町時代のものと推定されており、あるいは、安藤氏と何らかの関連があるのかも知れません。

今のところ、尾別周辺で確認されている中世陶磁器は、胡桃館遺跡の珠洲破片のみですが、如来座像・懸仏・茶臼(未確認)等の痕跡から考えると、宗教的な性格を有した遺跡が潜在している可能性は高いと考えられます。

現在中里町で登録されている中世遺跡は、中里城遺跡・五林遺跡・胡桃館遺跡・一本松遺跡の4ヶ所です。

次回はこのうち五林遺跡と一本松遺跡について紹介いたします。

2000/05/17
中世仏弘誓寺如来座像が本来安置されていた「解脱庵」については、詳しいことがわかっていません。ただし鰐口や梵鐘など、現在弘誓寺に残されている解脱庵什物により、少なくとも江戸時代中期までは存続していることが明らかです。昭和40年(1965)刊行の『中里町誌』は、解脱庵について次のように述べています;

尾辺地館(観音堂地)の東北3粁、滝の上にあったもので尾辺地館鬼門の固めに造営したといわれ現に寺尾敷といい営林署の苗圃となっている。双盤、梵鐘の銘は享保15年、宝暦4年があるからその後廃寺となり什物は古河家に保存されたものであろう。この由緒を知ることを得ないが重要な遺跡と思われる。

かつて付近から茶臼が出土したとの記述もありますが、現在は行方不明となっているほか、比定地も採石場となっています。このように、解脱庵に関しての情報は少なく、仏像以外に中世に結びつく資料は無いように思えますが、ここでは上記文中の「尾辺地館」に着目してみましょう。解脱庵との関係については不明ですが、「尾辺地館」比定地は存在します。

それはどこかというと、現在の弘誓寺が所在する台地です。同台地には津軽三十三観音十四番札所「尾別観音堂」も所在していますが、空壕・帯郭などの遺構が認められ、「おっぺつだて(尾別館・尾(乙)辺地館)」と通称されています。

詳細は、「中里町の遺跡-胡桃谷遺跡-」をご覧になっていただきたいと思いますが、台地並びに周辺部から、縄文土器・土師器・須恵器・経石(時期不明)・鉄滓(時期不明)が採取されるほか、弘誓寺に珠洲擂鉢破片が保存されていることから、縄文・平安・室町時代にまたがる複合遺跡と考えられています。

また文献では、鎌倉時代の南部家文書「津軽降人交名注申状」に、新関又次郎乙辺地小三郎光季なる武将の名が並んで見え、前者を中里城主、後者を尾別城主に比定する説があります。このように、状況証拠からは、鎌倉時代から室町時代にかけて、尾別地区を支配していた豪族層の存在が見え隠れします。次回は、尾別館周辺から出土したもう一つの痕跡を紹介いたします。

尾別観音堂

尾別館(胡桃谷遺跡)

尾別館出土珠洲擂鉢

2000/05/13
昨日に引き続き弘誓寺如来座像の話題です。合掌形態の珍しさはあるものの、旧解脱庵什物紀年銘から推して近世仏ではないかと考えられていた同仏ですが、平成2年(1990)より行われた青森県立郷土館「青森県の仏像調査」によって、はるかに制作年代が遡ることが明らかになりました。同調査は西北五地方を中心に5ヶ年計画で実施されたものですが、その成果は平成8年(1996)開催の特別展「西・北津軽の仏たち」に活かされました。

少々長くなりますが、同展の図録より、調査担当者須藤弘敏弘前大学助教授、中野渡一耕学芸員による弘誓寺如来座像に関する所見を引用しましょう(青森県立郷土館 1996 『特別展図録 西・北津軽の仏たち』より);

「津軽に残された江戸時代までの仏像を調査して明らかになった第一の点は、調査した約1200体の仏像の99パーセントまでが江戸時代の仏像だったことである。津軽には中世鎌倉時代に既にいくつもの寺院が存在していたが、制作時期を鎌倉時代にまでさかのぼらせ得る仏像はこれまでのところ皆無である。予想されたこととは言え、中世の仏像がこれほど少ない県はほかにない。」(須藤弘敏氏)

中里町弘誓寺の如来坐像もすぐれた像で、近世の大幅な改造が施されてはいるが、体幹部は古い時代のもので、その制作地を特定することができないが年代的には北津軽郡で最も古い仏像である。」(須藤弘敏氏)

「西・北津軽地方は中世の豪族、安藤氏の勢力下にあったが、今回の仏像調査では直接関連性を窺わせる仏像は本拠地の十三湊を含めて見出せなかった。数少ない江戸以前の仏像と認定されたものとして、中里町弘誓寺の釈迦如来坐像や鯵ヶ沢町松源寺の千手観音立像があった。いずれも寺号を持たない観音堂や庵寺に長くあったもので、詳しい来歴は不明である。地方の仏師の作とは思われないものの、中央から下されたという伝承もなく、専門の仏師により津軽で造られた可能性もある。」(中野渡一耕氏

「2 如来坐像 中里町・弘誓寺 室町時代か 木造 割矧造・漆箔・玉眼 像高39.0cm (中略)お顔は理知的で整った表情を示し、鎌倉時代の様式を伝えた室町時代の造像と考えられ、当初の衣紋表現などにもそうした時代的傾向がうかがえる。弘誓寺にまつられたのは明治以降のことであるが、江戸時代以前の伝来については未だ確かなことはわからず、由緒を伝える銘文や縁起もないため、来歴については不明と言わざるを得ない。しかし、津軽地方に残る如来像としては大鰐町大円寺阿弥陀如来坐像に次ぐ古い像として貴重であり、小像ゆえにその美しい表情が印象的である。」(須藤弘敏氏);

というように、合掌姿の両腕並びに膝前部は近世以降新しく補修されたものとしつつも、主要部の制作年代は室町時代(か)に遡らせうるものであり、中世仏が殆ど認められない津軽地方においては貴重な古仏であるとする見解を述べています。

折しも、重要文化財寂光院本尊の焼損がニュースとなっていますが、戦火などで失われた仏像も数多いことでしょう。

そうした中、様々な奇禍に遭遇しながらも、補修をうけつつ現在まで生き残った弘誓寺如来座像には、どのような祈願が込められているのでしょうか?

次回以降、この小さな中世仏を案内役に、もう少し中里町の中世を探索してみましょう。

  『西・北津軽の仏たち』より 博物館所蔵レプリカ
2000/05/12
例年に比べて田植え作業が遅れていた中里町周辺でも、ようやく田に水が入り始めました。霊峰岩木山を背景に、きらめく水田群。見慣れた北津軽の風景も、実は江戸時代中期以降の新田開発の賜であることは、「中里町のあゆみ」に記したとおりです。

では、それ以前の中世の様子はどうであったかというと、これが余りわかっていません。もちろん、中世にも活発な人々の生活があったことは、隣村市浦十三湊遺跡の調査成果にも明らかですし、中里町内にも当該期の史跡が点在しています。しかしながらさらに遡る古代近世に比べると格段に情報量が少なくなります。

中里町尾別弘誓寺(海野圓澄住職)の本尊「木造如来坐像(中里町指定文化財第7号)」は、そうしたごく限られた痕跡の一つです。高さ40pに満たない小仏ですが、現在に至るまで数奇な運命を辿ってきました。同像は、元々弘誓寺北麓を西流する尾別川の上流、滝の上に位置した「解脱庵」の本尊であったと伝えられています。

同庵が廃されて後は、尾別村庄屋古川治五兵衛方に預けられ、やがて昭和4年(1929)某日観音霊場寺(弘誓寺の前身)に安置されました。なお、その翌日に古川家は火災で全焼、如来座像は危うく難を逃れました。

解脱庵の創建時期などは不明ですが、弘誓寺に享保15年(1730)の紀年銘のある解脱庵鰐口、宝暦4年(1754)の紀年銘のある解脱庵梵鐘が残されていることから、廃寺の時期については少なくとも18世紀後半以降であることが推定されます。なお、解脱庵のあったとされる滝付近からは、茶臼が発見されたという伝承も残されています。

このように謎に包まれた如来座像ですが、近年青森県立郷土館並びに弘前大学須藤弘敏助教授によって調査され、いくつかの重要な点が明らかになってきました。詳細については次回お伝えします。

2000/05/06
今日は、昨年刊行された「常設展示解説図録」をご紹介いたします。時代概説・テーマ解説・展示資料・年表など、ほぼ中里町立博物館の常設展示を網羅した内容となっています。内容については、以下のとおりです。(A4判フルカラー72頁、2,000円)
T津軽半島の自然環境と中里のすがた
  津軽半島の地形・地質 津軽半島の気象  
U津軽半島の歴史
  インデックス ディテ ール1 ディテール2 ディテール3 ディテール4 ディテール5
  時代のすがた 技術と開発 産業と経済 くらしと社会 まつりと心 交流と交錯
原始 縄文のくらし 土器と石器 原始の生業 自然環境とムラ 祈りのかたち 原始のネットワーク
古代 壕で囲まれた集落 モノづくりの発達 稲作と漁業 古代のくらし 古代の祭祀と文化 海峡を巡る交流
中世 中世の石造文化財 中世城館をつくる 中世の生産活動 動乱の中のくらし 中世の信仰 日本海交易と下之切道
近世 村と新田開発 新田開発と用水の確保 近世の諸産業 近世のくらし 庶民の文化といのり 岩木川水運と中通り
近現代 山と川と潟のある町 十三湖・岩木川の開発と地域 農業と林業 新しいまちづくり 受け継がれる伝統 二つの鉄道
表 紙 原 始 近現代

98.09 98.10 98.11 98.12

99.01 99.02 99.03 99.04-05 99.06-07 99.08-09 99.10-11 99.12

00.01-03 00.04