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2000/06/28
好天が続いていた津軽地方も、いよいよ梅雨に突入しました。雨空を恨めしげに眺める、アウトドア派の皆さまに、今日は「中里城跡Virtualお散歩」オープンのお知らせです。平安時代の防御性集落中里城跡史跡公園の概要を、40点余りの画像をもってご紹介いたします。

スピード優先のため画質は若干落ちますが、にも濡れず、にも遇わず、にもかぶれないという、まさにいいことづくめの史跡体験。居間にいながらにしてゆっくりと中里城跡を散策できます。

参考までに中里城跡史跡公園までの道のりを示した詳細な地図(35kb)も用意いたしました。梅雨が終わって晴れたら、ぜひとも実際に訪れていただければ幸いです。

2000/06/14
今月の4日で無事春の企画展「Modeling World−帆船模型の世界−」が終了し、次は7月29日(土)からはじまる夏の企画展「唐津焼の源流」展かと思いきや、実はこの間にもう一つの企画展が入っています。

題して「キルトのなかまたち」。公民館パッチワーク教室のみなさんが製作したパッチワーク作品を展示します。内容は盛りだくさんで、「トトロ」や「ポケモン」など子どもたちに人気のあるキャラクターをあしらったものから、畳3枚分の大きさのタペストリーまで、種々のテーマに沿った作品が、約100点出品されています。いつもとは違った雰囲気の企画展ですが、地域住民参加の展示という意味では意義がありますし、博物館の利用層も広がります。今後も、こうした町民主催の企画展を積極的に開催していきたいと思います。

企画展「キルトのなかまたち」

期 間:平成12年6月11日(日)

〜7月23日(火)

9:00〜16:45(入館は16:15まで)

毎週月曜休館

主 催:中里町立博物館

公民館パッチワーク教室

2000/06/10
鎌倉時代の文献については、以前もご紹介した南部家文書「津軽降人交名注申状」が著名です。元弘3年(1333)に勃発した鎌倉幕府方と朝廷方の争いは、翌建武元年後者の勝利のうちに終焉を迎えましたが、そのときの幕府方の降伏者名を記したのが「津軽降人交名注申状」です。上段に投降人、下段に投降人を預かった武将名が記されており、当時の津軽の支配勢力をうかがうことができる重要文書ですが、この中の降人の列中に新関又次郎乙辺地小三郎光季という武将の名が並んでいます。前者を中里城主、後者を尾別城主とする説があり、これが現在のところ、鎌倉時代の中里に関する文献上の唯一の手がかりといってもいいようです。

一方伝承では、いわゆる「義経伝説」が残されています。中里町中里地区の通称「五林」には、源義経の従者大導寺力の妻「オリ」を祀る五林神社があります。由緒について、中里町誌(中里町 1965)は、

奥州に逃れ来る源義経公の従者大導寺力は津軽三厩にて主人公と別れ、その地に止まりたるも、中里部落にさまよい来り、部落の娘「オリ」と同棲せしも、頼朝勢に発見され、大導寺沢に籠れども衆寡敵せず討死せりと、身持となれる「オリ」は妊らめる子と共に自害せり。その臨終の言葉に「妾は末永く此の地の産神とならん」と、即ち五輪塔を中心に左右に宝筐印塔を建立。現在は社殿を新築して石塔を安置している。

と伝えています。御神体として祀られている五輪塔と、両側に並ぶ複数基の宝篋印塔は、郷土館等の調査によって、鎌倉時代から室町時代前期の造塔年代が推定されています(青森県立郷土館 1990 青森県中世金石造文化財 ほか)。おそらく同地区の通称名である「五林」は、同五輪塔に由来すると考えられますが、五林地区の中心部に、「五林館(亀山館)」があります。現在はほぼ宅地化され、一部畑地が残る程度ですが、たしかに同心円状に取り巻く数段の平場と空堀跡が認められます。

五林館を含めた周辺一帯は「五林遺跡」として登録されており、館部分の一部が平成6年(1994)教育委員会によって試掘されています。柵列状遺構、空壕跡などが見つかるとともに、 土師器・須恵器・擦文土器・土錘等平安時代の遺物が出土しています。試掘時は中世遺物がまったく出土しませんでしたが、平成4年(1992)詳細分布調査によって、五林館西側の低地から中国製青磁が表面採集されています。器形は皿もしくは小鉢で、器面に箆描蓮弁文が刻まれています。年代は14〜15世紀(室町時代前期)が考えられ、鎌倉時代のものではないにしろ、はじめて考古学的に中世の五林地区にアプローチできる資料が見つかりました。

なお、その他の「義経伝説」を紹介すると、まずは五林神社の祭神「オリ」の主人大導寺力の隠棲地とされる「大導寺屋敷」。中里川の上流にある山深い台地で、周辺には「大導寺沢」「大導寺牧場」など、大導寺にちなんだ地名や施設が広がります。かつて開墾された際に、礎石らしいものが出土したとされますが詳細は不明です。また、宮野沢地区には、源頼朝の神霊を祀る白旗神社があるなど、今となっては由来がわからない痕跡が残されています。必ずしも歴史学的に根拠のあるものではありませんが、中里町の隠された史跡として、巡り歩くのも楽しいかも知れません。

五林神社五輪塔 五林館(五林遺跡) 青磁皿(五林遺跡採集)
2000/06/8
ちょっと前まで、中里町に存在する中世遺跡は殆ど知られていませんでしたが、ここ10年ほどで表面採集や発掘調査によって4遺跡が新たに加わりました。

中里城遺跡では、昭和63年からはじまった発掘調査によって、14世紀後半〜15世紀前半の青磁・白磁・青白磁・瀬戸・珠洲・越前、中国銭等の遺物が見つかっています。また、尾別館(胡桃谷遺跡)出土の珠洲破片については、以前紹介したとおりです。

今回紹介する深郷田館(一本松遺跡)五林館(五林遺跡)の中世陶磁器については、平成4年(1992)に実施された詳細分布調査によって発見されました。一本松遺跡は、中山山脈から西方へ延びる舌状台地の先端部(標高約40m)とその麓部からなり、ちょうど宮野沢川を挟んで中里城遺跡と相対します。貞享4年(1687)深郷田村御検地水帳には、「古館」壱箇所とあり、これが一本松遺跡だとすれば、少なくとも江戸時代前期には、古い城跡と認識されていたことがうかがわれます。実際台地上には、数段の帯郭状の平場並びに空壕状の落ち込みが認められ、地元では「深郷田館」「楯山城」などと通称されています。

一本松遺跡の調査歴は以外と古く、昭和37(1962)年成田末五郎・佐藤達夫・渡辺兼庸・佐藤仁の諸氏によって深郷田遺跡の発掘調査が実施された際に、同遺跡最頂部も試掘され、平安時代の竪穴住居跡1軒ほか、土師器・須恵器・擦文土器・羽口・鉄滓等が出土しています(1965「深郷田遺跡発掘概報」『中里町誌』)。

また平成6年(1994)に行われた中里町教育委員会による試掘調査では、帯郭と考えられていた部分から土師器等を出土する空壕跡が発見され、古代の防御性集落の可能性が高まっていました。ちなみに、これらの調査では中世遺物がまったく出土していません。

一方、試掘調査を遡る平成4年(1992)の詳細分布調査では、舌状台地西麓の緩斜面において、多量の土師器・須恵器並びに土錘・鉄滓が採集されました(1992『中里町の遺跡T』)。この時に数点の陶磁器も採集されていましたが、時期不明ということもあり、未報告のまま倉庫に眠る事となりました。

時は過ぎ、博物館の開館準備が進む平成8年(1996)・・・。どうしても文献が中心となる近世の展示を考えるにあたって、考古資料で何かを表現できないかと考えていた最中のことでした。ひょっとしたら平成4年の分布調査時に採集した陶磁器のなかに、近世陶磁が含まれているかも知れないと思いたちました。長いこと眠っていた資料の中から、多少は古そうなものを急遽かき集め、浪岡町史編纂室(当時)の工藤清泰氏に鑑定をお願いしました。

工藤氏の陶磁器を仕分ける手が、忙しく左右を往復し、しだいに資料の山を築いていきます。左の山は明治以降のもの、そして右は思惑どおり近世の肥前陶磁で、その数は30点以上になりました。密かにほくそ笑んでいたところ、工藤氏の手がふと止まりました。2p*5pほどの小破片をしげしげと見直し、ひとこと「これは鎌倉時代のものだね・・・」とおっしゃいました。

それが、現在のところ町内最古の中世資料である、一本松遺跡採集の白磁碗破片でした。十三湊周辺の中世遺跡では、安藤氏の最盛期とされる14世紀後半〜15世紀前半(室町時代前期)の遺物が最も多く、鎌倉時代に遡る資料は十三湊遺跡をのぞいて殆ど知られていませんでした。つまり中里町における考古学上の空白である鎌倉時代が、この小さな白磁片によって埋められたわけです。

鎌倉時代の中里・・・。まったく想像のつかない時代ですが、微かな断片によって、ようやく歴史の俎上に載せることができそうです。考古資料以外では、鎌倉時代にまつわる文献や伝承などが結構残されていますが、次はその代表格である五輪塔五林館について見ていきたいと思います。

深郷田館(一本松遺跡)

空壕跡

白磁碗(一本松遺跡採集)