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2000/09/24
さて、前回ちょっと触れた「吉田松陰遊賞之碑」ですが、実は3種類の碑が存在します。最初の碑は、昭和6年5月、津島文治(作家太宰治の兄)ほかの土地の有志が建立したものです。碑背の撰文は当時の青森県知事守屋磨瑳夫が担当し、碑表は徳冨蘇峰(作家徳富蘆花の兄)が揮毫しました。この碑は、十三湖の旧小泊道と現在の国道の分岐点に建てられていましたが、昭和30年代の道路拡張工事中に倒壊し、破損してしまいました。その後道路脇にしばらく放置されていましたが、市浦村の佐藤慶司氏によって修復され、市浦村相内蓮華庵に建立されました。

一方、中里町においては昭和39年再建の論議が起こり、地元の書家下山正夫が蘇峰流に真似て揮毫した碑が、初代と同地点に建立されました。それが2代目の碑です。

さらに風化が進んだ2代目の碑にかわって平成4年に建てられたのが、現在中里町今泉十三湖岸公園内にある三代目の碑です。初代の碑を忠実に模して造られましたが、石質は黒御影に変更され、建立地点も500m程南側の現地点に移動しました。ちなみに、2代目の碑は、役目を終えて現在の碑の下に静かに眠っています。2代目の碑は、もう見ることはできませんが、初代と3代目は現在も十三湖の東と北に並存しています。松蔭の足跡を辿りながら、見比べてみるのも一興かも知れません。

[碑 文]

(表)吉田松陰遊賞之碑            蘇峰菅正敬書

(裏)松陰先生曾遊記念碑

嘉永四年十一月長藩士吉田松陰与肥藩士宮部鼎蔵北遊自江戸至水戸越五年正月経会津新潟航佐渡更入北奥行過内潟今泉七平忽見萬頃一碧如鏡汀渚盤回雲煙呑吐鳧鴎□翔漁歌互答而白扇之懸天外者為津軽富士二士在行旅五閲月備嘗艱苦至是始開快適之顔云鳴呼海内以名勝称者千百何限而不得名士揚其輝則霧中花月雲外月耳、雖百世無知矣央豊之耶馬渓依頼氏以著我十三潟頼二士以彰東西呼應成神州之美固其所也以此地僻在一方其美不遠見為憾耳朝近舟車之便千里如比諸昔同帯双刀以拳峻嶺駕一葉以凌双濤其難易苦楽果如何也余知其不遠千里而来者可日相踵也頃郷之有志胥謀建石□諸江湖全応嘱記之

青森県知事正五位勲四等  守屋磨瑳夫  撰

従五位医学博士               久保木保寿  書

昭和六年歳次辛末五月

[書き下し文]

碑表   吉田松陰遊賞之碑  蘇峯菅正  敬書

碑裏 松陰先生曾遊記念碑

嘉永四年十一月長藩士吉田松陰肥藩士宮部鼎蔵と北遊す。江戸自り水戸に至り、越えて五年正月会津新潟を経て佐渡に航す。更に北奥に入る。行き行きて内潟今泉七平を過ぎ、忽ち万頃一碧(ばんけいいっぺき)を過ぎ、忽ち万頃一碧、鏡の如きを見る。汀渚盤回(ていしょばんかい)、雲煙呑吐(うんえんどんと)、鳧鴎□翔(ふおうこうしょう)、漁歌互答而して白扇の天外に懸るは津軽富士為り。二士行旅に在るは五閲月(えつげつ)。備(つぶさ)に艱苦を甞め、是に至りて、始て快適之顔を開くと云。嗚呼、海内(かいだい)名勝を以て称する者千百何限りなく而して名士其輝を揚得せざれば則ち霧中の花、雲外の月たるのみ。百世と雖も知る事なし、央豊(おうほう)之耶馬渓(やまけい)頼氏に依り以て著たり。我十三潟二士に頼りて以て彰る。東西呼應神州の美を成すは固(もとより)其所なり。唯此地を以て一方に僻在し、其美遠く見得ざるを憾(うらみ)となすのみ。輓近舟車(ばんきんしゅうしゃ)之便千里比隣の如く、諸(もろもろ)昔日に比するに双刀を帯び以て峻嶺を攀(はん)づ駕一葉以て恕涛を凌ぎ其難易苦楽景して如何ぞや。余知る其れ千里を遠しとせず来者日に相踵ぐ可きを。頃(このごろ)、郷之有志胥謀り石を建つるを諸江湖にはかり、余嘱に應じて之を記す。

青森県知事正五位勲四等 守屋磨瑳夫 撰

従五位医学博士         久保木保寿 書

昭和六年歳次辛未五月

初代(市浦村相内蓮華庵) 2代 3代(中里町今泉)
2000/09/22
前回述べた工藤他山は幕末の人ですが、幕末に中里にやってきた偉人といえばなんといっても吉田松陰です。嘉永4(1815)年12月14日、22歳の松陰は江戸の長州藩邸を出発し、盟友熊本藩の志士宮部鼎三、盛岡の江幡(仮字:すいません、字が見つかりませんでした…)五郎と水戸で落ち合い、北日本歴遊の途につきました。

その足取りは「東北遊日記」に詳述されていますが、千住、水戸、白川、会津、新潟、佐渡、酒田、秋田を経て、翌5年2月29日秋田白沢を発して津軽に入り弘前泊、3月1日は弘前滞在、2日藤崎泊、3日に中里に到着しました。嘉永5年というと工藤他山が中里に住み始めた年に相当しますが、松蔭の記録には何も記述がなく、あるいはちょうどすれ違いであったのかも知れません。中里加藤八九郎の家に宿泊した松蔭は、翌4日には小泊に向かい、5日三厩泊、6日夜蟹田を船で発し、7日青森を経て野辺地泊、8日五戸泊、9日一戸泊後、盛岡、仙台、米沢を経て4月4日江戸に帰着しました。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談し、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見ることにありました。その旅は、苦難の連続でしたが、安らぎの一時もありました。今泉(現中里町)を過ぎ、小山を越えた松陰の眼前に広がったのは、十三潟(十三湖)湖上に浮かぶ優美な岩木山(津軽富士)のすがたでした。松陰もこのときばかりは疲れを忘れて、「真に好風景なり」と賞賛しています。

松陰のみた風景がどのようなもであったかは、「東北遊日記」の記述と行間から推測するしかありませんが、以下ではCGを使って想像復元してみました。

津軽の風景を讃えた僅か7年後、松陰は短い生涯を閉じることになるわけですが、津軽の人々は松陰の訪問と激賞を忘れませんでした。

昭和6年有志一同によって建立された「吉田松陰遊賞之碑」、松陰の遺徳を後世に伝えるものです。この碑は数奇な運命を辿ったことでも知られていますが、同碑については次回詳しくお伝えします。 

松蔭が見たと思われる風景(今泉七平から)

2000/09/20
中里城跡史跡公園から、遊歩道を尾根伝いに5分ほど進むと、二段に分かれた平場があります。ここも中里城跡の一角になりますが、現在は神明宮として利用されています。境内の一隅にはひっそりと石碑群が佇んでいて、その左端が今日紹介する工藤他山先生宅址碑になります。中里城へ行くたびに気にはなっていましたが、そこは戦後生まれの悲しさで、漢文からなる碑文の内容が殆ど理解できないでいました。

工藤他山は、もと津軽藩士で、藩校稽古館で教鞭を執っていましたが、嘉永5年には弘前から12里も離れた中里村に隠棲し(理由不明)、寺子屋を開いて子弟の教育に当たりました。その後再び稽古館に招かれるとともに、私塾を経営し、維新後は東奥義塾の教授として活躍しました。津軽藩史の編纂者としても知られています。門弟には、新聞「日本」を主宰した陸羯南や、探検家・青森市長として知られる笹森儀助、ポーツマス条約で活躍した外交官珍田捨巳どがいます。

次回の企画展は、中里に関連する人物を取り上げる予定ですので、当町の教育の原点ともいうべき工藤他山は、避けて通れません。そこでネックとなるのが、碑文の内容というわけで、ほとほと困り果てていたところ、救世主が現れました。今年中里中学校を退職された藤元徳造先生に事情を話したところ、書き下し文と口語訳の作成を快諾くださり、下記のような成果となって帰ってきました。藤元先生には、この場をお借りして御礼申し上げます。

[碑文]

遯世无悶

他山工藤先生宅址碑

是爲他山工藤先生宅址先生壯時轗軻不遇獨事讀書韜跡干此殆廿年藩主津輕侯擢爲藩學々士爰藩撤後下帷ヘ授問業者麕集晩謝世事閉門不出專修藩史葢先生學コ之大與育英修史之功實基於此地邑人至今景仰不已將樹碑表之請余銘銘曰

棠#猶敬 矧此舊墟 彼操井臼 此修琴書 勿樵勿牧 君子攸廬

貴族院議長公爵 近藤篤麿題字

東宮侍講正五位 三島 毅撰

錦#間祗侯正四位 金井之恭書

[書き下し文](藤元徳造)

世を遯(のが)れて悶(うれ)ふる无(な)く

他山工藤先生宅址碑

是は他山工藤先生の宅址爲り。先生は壯時轗軻(かんか)不遇にして、獨り讀書を事とし、跡(み)を此に韜(かく)すこと殆ど廿年なり。藩主津輕侯、擢(ぬきん)でて藩學の學士と爲す。藩撤せられし後、帷(とばり)を下してヘ授し、業を問う者麕集(きんしゅう)。晩には世事を謝し、門を閉ざして出でず。專ら藩史を修む。葢(けだ)し、先生の學コの大と育英修史の功とは、實(まこと)に此の地に基づく。邑人今に至るまで景仰(けいぎょう)して已(や)まず。將(まさ)に碑を樹てて之を表せんとす。余に銘を請う。銘に曰く。

棠(やまなし)にやどるすら猶(な)ほ敬う。矧(いわん)や此の舊墟(きゅうきょ)をや。彼(かしこ)にて井臼(せいきゅう)を操(と)り、此にて琴書を修む。樵(きこ)る勿かれ牧(ぼく)すること勿かれ。君子の廬(いほり)せし攸(ところ)。

貴族院議長公爵 近藤篤麿題字(明治時代の政治家。近衛文麿の父)

東宮侍講正五位 三島 毅撰(明治時代の漢学者で、二松学舎の創始者)

錦□間祗侯正四位 金井之恭書(維新期の勤皇家・書家。)

[口語訳](藤元徳造)

遯世无悶/世間から隠棲しても、世に不平不満はない。

ここは工藤他山先生の住居址である。先生は働き盛りの壮年期は志を得ることもなく、不遇な時を過ごしながらも、一人でこつこつと勉強し、およそ二十年間は世に出ることもなかった。しかし、津軽藩の藩主承昭(*つぐあきら 12代藩主)侯は、彼の学才を認め、藩校の先生に抜擢した。藩が廃された後、私塾を開き、多くの子弟を教育した。晩年には隠棲しながらも、津軽藩史編纂に専念した。

今思うに、先生の学徳と多くの英俊を育て、藩史編纂の功績は、まことにこの中里村での11年間の生活が基になっている。村人達は今でも先生の徳を慕っている。そこで、頌徳の碑を建立すべく、私にその銘文をお願いしてきた。その銘文は、

昔、周の名臣召公がヤマナシの木の下で野宿したことを讃えた詩があり、その召公を今も人々は敬っている。ましてやこの先生の住居址もしかりである。先生は自ら水をくみ、米を搗いたりの生活である。そのなかで学問に励んだ。どうかこの地の木を伐採したり、家畜を放牧しないでほしい。ここはかつて他山先生の住みしところなのだから。

2000/09/08
古唐津の名品ほか、窯跡・青森県内遺跡で発掘された古唐津約200点を展示した秋の企画展「古唐津蒐選展」も、いよいよ明後日の日曜日までとなりました。

今回は、38日間と例年より長目の会期を設定したのですが、始まってしまうとそれこそあっという間の企画展でした。壊れ物だけに、管理面では気が休まることがありませんが、それもあともう少しの辛抱です。来週中には、返却もすべて終わって、つぎの企画展の準備に取りかかっていることでしょう。

今回の企画展では、九州における唐津の窯跡出土製品と、青森県内の消費遺跡から出土した製品が、約400年の時空を越えて出会いました。そのなかで、浜通遺跡(東通村)野脇遺跡(弘前市)出土資料の中に、飯洞甕・山瀬・小十官者窯など、いわゆる岸嶽系諸窯の製品と思われるものが確認できたことは、大きな成果となりました。

唐津製品は、朝鮮戦役後の慶長年間以降急速に普及するという思いこみがありましたので、県内から唐津の初期製品が出土するとは想像すらしていませんでした。結局唐津は、中世陶磁(とくに備前や越前等)の流通形態を継承するとともに、美濃等の代換需要をねらって、当初から計画的に操業されていたのかも知れません。

それにしても、今回改めて認識したのは下北半島に位置する浜通遺跡の不思議さです。太平洋を臨む標高10mほどの微高地城に位置し、大規模な建物跡ほか、初期唐津・備前・美濃・志野等の製品がまとまって出土していますが、存続期間は中世末から江戸初期にかけてのごく短期間であるとともに、遺跡の性格も不明の状態です。

東通村には、ほぼ同時期の貝塚遺跡(大平貝塚・岩屋近世貝塚ほか)なども存在し、海産物の生産拠点としての性格が考えられますが、それらの製品を取り扱う回船問屋等の可能性を考えるべきでしょうか。

  白唐津ぐいのみ(飯洞甕窯) 唐津ぐいのみ(浜通遺跡)飯洞甕窯比定資料
斑唐津碗(山瀬窯) 唐津盃(浜通遺跡)山瀬窯比定資料 唐津皿(浜通遺跡)小十官者窯比定資料