博 物 館 雑 感
2000/12/27 | ||
ちぴっ子と館内ツアー
雄風の町なかさと。中里町立博物館に、2000年11月14日から勤務となった私は、見るもの、聞くもの、触れるもの…、殆ど初めての体験です。勤務して1ヶ月以上経った今日でも、暗中模索の真っ只中ですが、周囲の方々は温厚篤実な人柄で、助けて頂いています。 お陰さまで、針穴程度の明るさが見えてきました。そんな最中、小・中学生を対象とした無料開放日がやってきました。第2土曜日のその日、子供たちの元気な声が館内に響いています。私も、子供たちと一緒に館内めぐりをしてみたいと思います。 わが博物館のシンボルとして、津軽森林鉄道ディーゼル機関車が設置されています。今にも動きだしそうな楓爽とした姿に、子供たちは我先にと飛び乗り、機関士さながらの得意気な顔をして、私と顔を合わせてはニッコリと微笑む豆機関士4人。 さて、最初の停車場は、原始ゾーンです。友達同志、時間を競って縄文土器(パズル)の復元に真剣な眼差しで頑張っています。側では女の子数人が、竪穴住居で暮らしの様子をあらわしたマジックビジョンに見入っていました。 次いで、古代ゾーンヘと進みます。製鉄と鍛冶のコーナーでは、子供たちが、一生懸命ふいごを動かして鉄のできる工程を体験します。又、自転車タイムマシーンで、力強くペダルを踏み、額に汗を流しながら縄文への旅に挑戦。ヤッター!と右の握りこぶしを振りかざす子、へとへとになって、座り込む子、みんな頑張っています。 機関車はやがて、中世ゾーンに停車。城館の築造過程、手工業、焼き物手触り体感などあるなかで、コンピューターによって、ゲーム感覚で知ることができる、日本海交易ルート。おしい!とか、ヤッタ〜ッ!の声が飛び交っています。 そんな歓声を背にしながら次は、近世ゾーンヘと走ります。この近世ゾーンでは、江戸時代の中里の庶民の暮らし、文化等紹介していますが、小学校5、6年生の子供たちは、ブック形式で紹介されている、岩木川と十三湖の移り変り、コンピューターによる、新田開発の進展に興味を持っていました。 いよいよ最後の近現代ゾーンの停車場に機関車は入ります。ここでは、津軽鉄道の車両シアターが設置されていて、駅長さんの帽子を着けて、中里町立博物館行きの切符を鋏んで渡す子、貰った切符は記念に持ち帰ります。 一方で、キャーッ!という悲鳴がしました。見ると、田下駄をはいて稲作づくりの体験していた子どもの声でした。当時は腰まで浸かりながらの農作業には、田下駄はなくてはならない道具でした。 さて、5つの各時代の体験ゾーンを駆け足で紹介してきましたが、数多い模型、映像、レプリカなど、体感しながら歴史と文化を学ぶコーナーが沢山あります。このほか、特別展示室では春、夏、秋、冬の特別企画展が開催されており、地元の住民は勿論のこと、他町村から来館される沢山のお客さんに喜ばれています。 それでは、そろそろ子供たちとの体感ツアーは、ここで終了したいと思います。(Jin) 今年の博物館ホームページ更新は、今日が最後になります。来年もどうぞよろしくお願いいたします。みなさん、よいお年を! |
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2000/12/21 | ||
外はとても良い天気。9時半頃になると巡回バスがパルナス駐車場に到着し、子ども達が、1人、2人、3人と降りてくる。毎月第2・第4土曜、町内小中学生の“無料開放日”のはじまりである。 「おはようございます」「おはよう」と元気な声とともに、名前・住所を記帳し、展示室の方へ走って行く。中里町が誇る不世出のスプリンター井沼清七の銅像と同じポーズをとってみる子。あるいは黒曜石を見て、「これと同じ石で出来た矢じりが、家にも有る」という深郷田の女の子。畑から拾ったそうだ。
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“縄文土器パズル”の前で、2人で交互に組立時間を計りながら、「もう少しで上級だ!」と歓声を上げる子。何度も挑戦しているうち、だんだんと早くなってくる。それを後から来た子もじっと見ていて次に挑戦する。 深郷田遺跡から発掘された縄文土器の前では、「これ、本物なの?」と聞く子がいる。そして須恵器大甕の前では、「何をいれたんだろうか?」「水とか食物など入れたのかな?」「子供だったら何人入るんだろう?」等々いろいろな声。
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次は“ふいご体験”。ジャンパーを脱いで、把手を引いては戻して、鉄を溶かす作業を続ける。汗だくで終わると、“自転車タイムマシン”へ。ここでも途中で上着を脱ぎ、又ペダルを踏む。「やっと5500年前についた」と降りてくる。“日本海交易ゲーム”の前では、テーブルから持ってきたイスに陣取り、「2番へは行くけど、1番へなかなか行けない」と言う。 津軽の水郷“豊岡集落模型”を見て「この辺に私の家があるの」。川岸には、船に農作物を積んだり、野菜を洗っている人、それを橋の上から見ている人、「この水、本当の水みたい」とちょっと触ってみる子。 |
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“津軽鉄道出札口体験コーナー”で駅長の帽子をかぶり、手旗で合図を送ったり切符を取り、乗車券日付機で今日の日付を入れ、挟みで切る。家へ持って帰り、お父さん、お母さんに見せるそうだ。 | ||
“田下駄体験”、大足を履いて泥田へ入り「わあ、こんなに沈むの!」とびっくりしている。足踏み脱穀機に触れて、「これを回したことがある」「この赤飯美味しそう」「手動電話機は、どうして使うの」「こっちのは、見たことがある。」
炭アイロンに触り、手回計算機を回し、紙製ランドセル、木製冷蔵庫、昔の教科書を見ながら、三内丸山遺跡へ行って大型竪穴住居のなかや、大型掘立柱建物などいろいろ見て来たと話してくれる。また、顔を上げ、年表を指さし「今、ちょうどこの辺を習っている。」と言う。 |
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入り口の鈴が、カランカランと鳴り、そちらに目をやると小さな男の子、後ろからお婆ちゃんが入って来て「入館料は?」と聞かれ、「いりません、さあどうぞ・・・」。 津軽森林鉄道のディーゼル機関車へ真っ直ぐ走って行き、運転席に乗り込むと、いろいろレバーを引いたり、押したり。そのうちパッとライトが点灯し、びっくりしながらも喜ぶ。お婆ちゃんといっしょに「バイバイ」と手を振りながら帰って行く。 子供達も、図書館でビデオや本を借りて帰るそうだ。帰りのバスの時間ぎりぎりまで粘って、走ってバスに乗り込む子たちを送り出しながら、忘れ物がないか館内を見回る。今日もにぎやかな無料開放日でした。(Ka) |
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2000/12/15 | ||
今月からは、「博物館雑感」にコーナー名を変更します。博物館で起きた出来事や思うことなど、博物館職員が交替でお送りいたしますので今後ともよろしくお願いいたします。;
資料室(*旧発掘調査資料室:現在は博物館収蔵庫に入りきらない資料を臨時的に収蔵している。)を脱出して早二年、膨大な資料を残して、私たちは博物館へ引っ越して来た。しかし、次回の企画展準備のため、久しぶりに“恐怖の資料室”へ足を運ぶと、そこは早くも蜘蛛の巣状態…・である。 臭いをお伝えできないのが残念(?)だが、足のつき場もない中、悪戦苦闘しながら資料を探す。と、歩くたびに床がギシギシ…、今にも落ちそうな気配(決して私の体重のせいではない)! 未公開の資料を求めてさらに奥へと進み、別の部屋へ…。ほのかに漂う味噌・醤油のにおいの先には、まだ陽の目を浴びていない「味噌樽」が鎮座している。直径108pのこの味噌樽をどうやって活用するか思案する。 昔はどこの家庭でも仕込んでいた「みそ」。今の子ども達は味噌はどうやってできるのか知っているのだろうか?「大豆からできる!!」ぐらいは知っていてもその大豆を見たことがあるだろうか。 大豆は私たち祖先が二千年以上も前から作ってきたものである。縄文時代の終わりから現在まで受け継がれている大豆であるが、今その大豆さえも輸入量が増えつづけている。 そして味噌も醤油もスーパーで簡単に手に入る時代、昔のお母さんは何でも手づくりでさぞかし大変だったと思う。そんな中里町の歴史を体験できるような、そして遠い・遠い祖先がとても身近に感じられるような「子ども教室」をこれからも開催していけたらいいなぁーと思うこの頃である。 今日もまた、寒空の中、次回「新収蔵資料展」のための試行錯誤と、恐怖の ねずみ 蜘蛛 草履虫 たちとの闘いの幕が開ける…。(Ko) |
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2000/11/16 | ||
本日、津軽鉄道津軽五所川原駅において、毎年恒例のストーブ列車一番列車出発式が挙行されました。10:30から行われたセレモニーでは、北川なかさとものがたり研究会座長・三和津軽鉄道株式会社社長のあいさつに続いて、一番列車に乗車する運転士・車掌さんに花束が贈呈されました。その後、機関車を背景にテープカットが行われ、ストーブ列車は10:54無事五所川原駅を出発しました。
石炭がくべられたダルマストーブでは、スルメが焼かれ、シジミ汁や日本酒とともに、乗客に振る舞われました。温かく心地よい車内には、東京や京都からの旅行客も乗り合わせ、予期しないもてなしに喜びの声を挙げていました。 夏には車内温度43度にのぼる「真夏のストーブ列車」の模様をお伝えしましたが、この日は肌寒いまさに正当なストーブ列車日和。ストーブ列車はこれからが本番です。スルメを片手にコップ酒を傾ける至福のひととき。みなさんもいかがですか? (*ストーブ列車の運行時間については、事前に確認してください。津軽五所川原駅 0173-35-7743) |
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ストーブ列車一番列車出発式 | 本日の運転士・車掌さん |
テープカットの模様 |
あたたかい十三湖シジミ汁 | シジミ汁を振る舞われた乗客 | スルメと日本酒も・・・ |
2000/11/14 | ||
現在開催されている秋の企画展「―中里の人々―山と川と潟のある町のものがたり」では、さまざまなテーマごとに、中里に関連のある人物を紹介していますが、その中に「相撲王国への道」があります。
同テーマで紹介されている出羽の花・源氏山・十三ノ浦・津軽国のほかにも、中里は大勢の力士を輩出しています。試みに、「中里スポーツ史―陸上・相撲・卓球編―(1987 中里町教育委員会)」が紹介している力士をプロアマを問わずに数え上げると、明の里・青山勝博・珍田智・藤岩・若岩木・藤の里・鬼の里・藤の川・北光山・陸奥錦・宮卜川・敦賀忠治・塚本昭三等々、切りがありません。 |
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それこそ大相撲の力士や、全日本・国体の覇者、大学横綱から、県大会優勝者、高校チャンピオンまで、道を歩けばお相撲さんにぶつかるという感じがしないでもありません。また町内には源氏山碑をはじめとする力士碑が多く建立されているほか、「出羽の花杯」や「米塚義定杯」などの相撲大会が盛況を極め、小中学校チームも全国大会で活躍するなど、まさに相撲王国の面目躍如といったところです。
宮野沢集落の集会所の前には、50p×45pほどの石塊が置かれています。 |
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「力石」とよばれるもので、力試しに使用されたものです。重さは43貫(約161s)と考えられ、担ぎ上げに成功した人々の名が刻まれています。 | ||
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また、名が刻まれていませんが、宮卜川も数度のチャレンジの後に成功させたと伝えられています。それにしても明治以降4人の人々しか担ぎ上げに成功していませんから、その難しさは想像を絶します。
先述の中里スポーツ史は、相撲隆盛の理由について「昔から中里の人達は、ハケジョコ(陸上)と相撲が根っから好きなのであり、すもうキチと言われる人がたくさんいる。それが、設備の上に |
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も、また優れた選手や名力士を輩出する上にも大きな力となっている。」と解説しており、そうした「気分」は現在も色濃く残されていますが、ただ最近は小中学生の相撲離れを指摘する声も挙がっています。
まわし姿が敬遠されたり、サッカー・バスケット人気に押されているということが間接的な原因のようですが、ここ最近大相撲で活躍する郷土力士がいないことも大きな影響を及ぼしているのではないでしょうか。21世紀に相撲王国の伝統を受け継ぐためにも、力石に新たに名が刻まれる力持ちが出現することを期待して已みません。 |
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2000/11/04 | ||
ひどくご無沙汰しておりました。約一月ぶりの更新です。去る10月29日(日)、宮野沢有志による「ふるさと再発見―幻の山神様探検―」が敢行されましたので、お伝えいたします。同イベントは、昨年度実施された「ふるさと再発見―落とし穴っこ探検―」に引き続いて2回目となります。
今年は、宮野沢の険阻な山奥にあるという「山神様」をお参りするという趣旨で、昨年度を上回る17名が参加しました。80歳代の高齢者もおり、行く末が懸念されましたが、午前9時に宮野沢集落を出発しました。 宮野沢川の支流大石沢に沿って、車で約30分。同地点からは、徒歩で沢を遡上していきます。勾配のきついアップダウンを繰り返し、ときには小さな滝をかわしながら、約40分、そろそろ疲れてきたころ、杉林の合間から奇異な横顔が見えてきました。この人面岩が「山神様」です。高さ4メートルくらいの薄緑の岩塊が、崖から突き出しており、横から見ると目・鼻・口・顎のような凹凸が確認できます。 自然のいたずらというには、あまりにも不思議な造形です。昔から、山仕事をする人達の信仰を集め、周辺には朽ちた鳥居が埋没していました。早速、ロウソクの灯がともされるとともに、進物が供えられ、お参りが始まりました。普通の人は簡単には来られないところだけに、皆名残惜しそうにしながらも、一時間後には山神様を後にしました。 知る人ぞ知る、中里の隠れた名所、今後も機会があればご紹介していきたいと思います。 |
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17名の参加者 |
滝を越えて |
険路は続く |
かつての信仰を物語る朽ちた鳥居 |
山神様の横顔 |
逆方向から |