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2001/10/20
学社融合推進モデル事業「博物館のしごと体験」2、富野団地石碑群の調査の模様です。 般若寺イチョウから徒歩2分、急いで移動します。町営富野団地入り口には、5基の石碑が並んでいます。江戸後期から明治にかけての庚申塔が2基、甲子塔が3基です。いつもは何気に通り過ぎている石塊が、そんな昔の文化財であることに多少の驚きの声もあがりますが、とりあえず5つの班に分かれて、それぞれの碑の寸法、碑文、建立年月日の調査に着手します。

自然石をそのまま利用したものもあるため、サイズの計測にも結構苦労します。碑文も風化が進んでいるものも多く、殆ど判読できないものもあります。子供たちは、悲鳴をあげながらも、地べたに這うようにして、短時間で着々と調査をこなします。

一通り調査が終えると、成果を発表してもらいます。最も大きな明治時代のものは割と簡単に「明治32年旧8月25日の年号があり、甲子塔と刻まれています。」なんていうそつのない回答が返ってきますが、江戸時代のものは状態が悪いせいもあって大変です。「判読はできるんだけど、漢字がわからない。」とか「全然読めない・・」という声も。

その後簡単に庚申塔と甲子塔は、その後簡単に庚申塔と甲子塔は、十二支いずれも甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干と子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支を組み合わせたいわゆる干支に由来する信仰碑であることを説明しました。

干支の組み合わせは全部で60通りですので、干支で暦日を表す場合は60日で1巡、暦年を表す場合は60年で1巡します。後者の場合を「還暦」と呼ぶのは、そのような意味があります。ちなみに「甲子」は60通りの1番目、「庚申」は57番目になります。

庚申塔は、人間の体の中に住む三尸という虫が、庚申の夜眠っている間に体からぬけだし、天帝にその人の悪事を逐一報告するという民間伝承に基づいて建立されました。報告を聞いた天帝はその人の寿命を縮めてしまうため、庚申の夜は虫が抜け出さないように、一晩中起きていなくてはなりません。やがて皆で集まって起きていようと講が結ばれると酒宴なども行われるようになり、一種のレクリエーションとして広まった面もあるようです。

2基の庚申塔のうち、安政年間に建立されたものは「庚申塔 講中」、もう1基の天保年間に建立されたものは「猿田彦太神」と刻まれています。猿田彦は神話上の神で、皇室の祖先神を道案内した天狗のような神様です。この神様が庚申信仰と結びつき、庚申塔に刻まれるようになりました。ちなみに中里町内にも存在しますが、仏教の青面金剛と結びついた例もあるようです。

甲子塔は、3基中2基は「甲子塔」「甲子供養塔 講中」、もう1基はどうやら「甲子大黒尊導天神」と刻まれているようです。大黒尊導天神つまり大黒天というと、つい七福神の打出の小槌を持つ神様を想像してしまいますが、元々はインドや南中国の諸寺院で祀られていた恐ろしい表情をした神様です。江戸時代頃には、財福の神様として広く祭られるようになり、甲子の日には黒豆百粒を供えて、「甲子待ち」と称して深夜まで起きて祈願するようになりました。

その後は、拓本体験です。肉眼ではなかなか判読できない碑文も、画仙紙を水張りして、墨で打つと不思議不思議、文字が浮き上がってきます。おお!という歓声の中、2回目の授業は時間切れとなりました。

富野団地石碑群 いつもは素通りの石碑だけど とりあえずは計測
なんて書いてあるんだろう 読めるけど漢字がわからない おお!出てきた出てきた
2001/10/15
去る9月21日(最近「去る」という冠詞が多いです)、学社融合推進モデル事業「博物館のしごと体験」2が行われましたので、今更ながらその模様をお伝えします。 

そもそも当該事業の目的は「「調査」・「研究」・「展示」・「普及」という一連の博物館活動、すなわち対象となる資料から各種の情報を引き出し、整理し、展開し、展示し、伝えるという一連の過程を通して、地域文化財への理解を深めるとともに、自発的に学習する姿勢を涵養する。」という大層なものですが、要は性格の異なる文化財を、自分なりに工夫して最も適した方法で調べ、上手に他人に伝えるという作業を行います。

1回目は猿賀神社船絵馬群について、資料に実際に手で触れたり、材質・寸法・写真等について記録したり、あるいは由来等について聞取り調査を実施したりと、各種の情報収集を行いましたが、2回目の今回も同様に般若寺イチョウ富野石碑群ついて情報収集を行います。

前者は、天台宗富野山般若寺中庭の一角に佇立する推定樹齢300年前後という中里町内最古のイチョウです。伝承では、金木新田の開発にともなって、岩木川の治水工事を行った弘前藩主が、工事の完成を記念して自ら植えたものとされています。実際の作業に当たっては、現地での詳細な観察記録と聞き取り調査をもとに、樹種の特徴やイチョウが植えられた時代背景等の研究を行い、江戸時代の新田開発や治水の様子について明らかにできれば合格点ですが、そこまでは中・高校生でも難しいかもしれません。

まず、樹木の専門家である中里町役場産業課尾野譲さんのアドバイスを受けながら、樹木からどのような情報が得られるかをみんなで考えます。イチョウの大きさや種類、樹齢、いつ植えられたのか、なぜこの地にあるのか、などいろいろ意見が出されます。次に、それらの問題をどうすれば解決できるのかを再び考えます。幹周幹径の算出はすぐに思いつき、実際に巻尺で測ることで解決しましたが、それ以外が難問となりました。

樹高については、「木に登って調べる!」とか、なかには「1年間に伸びる長さを測って、樹齢を掛ける?」というユニークな答えも・・・。いずれも間違いではありませんが、すぐには実現が難しそう。そのうち「お堂の高さと比較してみる!」という意見が出たのを契機に、尾野さんは「目視法」という森林管理局等で行われている方法を紹介。

一定の長さの竿を立てて、目測で樹高を推定するという極めて簡便な方法ですが、早速用意した5メートルの函尺(スタッフ)をイチョウのそばに立てて計測開始。なかなか天辺まで見える良好な地点がなく、子供たちはどんどん後ずさっていき、最後は中庭を飛び出てしまいました。それでも、計測尺の3倍とか、4倍はありそうだとか、それぞれ目測で樹高を推定していきます。みんなの数字の平均値は、約20メートル。かなりいいセン行っています。続いて尾野さんが取り出したのがブルーメライスという測高器。代表の3人が使い方を教わり、計測したところ約25メートルという結果が・・・。

続いては樹齢の出し方。本来であれば生長錐という道具を幹にさして採取した年輪から測る方法があるということでしたが、芯をずれる場合が多く信頼性に欠けるということと、何より樹木を痛めてしまうということで、方法は聞き取り調査に限定されることになりました。

お堂の屋根より高いイチョウ

次は観察と標本の採集です。樹勢・枝の伸び方・芯形・葉のつき方・葉の形等を観察しスケッチしていきます。おまけに、樹皮拓もとってみました。薄紙を樹皮に当ててその上からクレヨンでなぞる乾拓法と、粘土を押し当ててできた型に石膏を流し込んで樹皮の模型を作る方法が試されました。

そんなこんなをしているうちにあっという間に1時間半が経過していました。まずい、石碑の調査が終わらないといことで、急いで富野団地前へ移動。早速石碑の調査ということになりましたが、その模様については次回へ。

幹周を測るのも一苦労 これで幹周と直径はOK ブルーメライスで樹高計測
極めて積極的な子供たち 樹皮拓をとってみる 落葉の観察とスケッチ
2001/10/12
去る9月11日、中里町立武田小学校6年生25名を対象として、学社融合推進モデル事業「博物館のしごと体験」1が行われましたので、その模様をお伝えします。  

中里町の「地域文化財」を自分たちで調査・研究することによって、今まで見えにくかった地域の歴史を理解し、伝承するというのが今回のテーマです。1回目の調査課題は「船絵馬」、場所は中里町富野に所在する「猿賀神社」。神社の傍らを流れる岩木川は、古来から水上交通が盛んで、津軽地方の大動脈を担うとともに、遙か日本海各地の港へ通ずる連絡路の役割を果たしていました。それらの船主や船頭たちが、航行の「安全祈願」として奉納したものが「船絵馬」です。  

いまだに鮮烈な色彩をとどめている絵馬は、子供たちの目にはどのように映るのだろう?そんなことを考えながら一枚一枚慎重に梱包を解き、準備にかかりました。しばらくして、雨に濡れながら子供たちが神社に到着。はじめに佐井川住職より、天台宗富野山般若寺境内に所在する「猿賀神社」の由来、「船絵馬」が奉納された時代背景等の説明を聞き、その後各班に研究テーマが課されました。  

テーマ1 船絵馬の枚数

枚数を数える班は、1枚・2枚・3枚・・・・枚数が多くなるとだんだんと不安になりもう一回・・・・。先生も「ん〜何回数えても違う!!」、事前に渡した資料の中に答えが書いてあるとも知らず。手には資料を握りしめ納得のいかない顔・・・。

 テーマ2  船絵馬の寸法

資料に実際に手を触れ、メジャー片手に縦横を計り、記入する。「横長が多いなー!!」「縦長が2枚しかない!」

テーマ3  船絵馬の奉納年代

「あっ、これ古―い、天保2年だ!!」「明治7年から15年が多い!!」(スルドすぎる)

テーマ4  船の帆の反数

これも大変な作業で、11枚帆を数えていく。帆の反数が何を意味し、何に関連するのか?果たしてそこまでたどり着くだろうか?

テーマ5  船絵馬の奉納者名・住所・船名

絵馬を見ながら、詳細にノートに書き写す。でも読めない漢字も多く、「チョー難しい!!

 中里町指定文化財第4号の「富野猿賀神社船絵馬群」88枚が子供たちの手によって甦る日はそんなに遠くないことでしょう。Ko

2001/10/10
8月に行われた博物館こども教室の模様をお伝えします。

今年の夏はとても過ごしやすく、8月に入りやっと稲の穂がでてくるとともに、白くかわいい花が、いっぱいの陽の光を浴び気持ちよさそうに輝いていました。県内は祭り一色。中里町でも8月11日、12日と中里祭りが開催され、「なにもささ流し踊り」ねぶた運行などが行われました。

そして8月18日第3土曜日、博物館では4日のこども教室で製作した土器や土偶の野焼きが行われました。9時ころから外へ土器や土偶を運び出します。外は東風(ヤマセ)が強く吹いていて、大倉岳方面には真っ黒い雲がかかっていました。早速2ヶ所で火をおこし、薪を燃やします。

風のせいで火勢が強く、このままでは薪が不足するのではと心配になるくらいあっという間に燃え尽きます。徐々に、火床面を広げていくとともに、周囲に土器土偶を並べ、回しながらまんべんなく温めます。1時間くらいでほぼ地面の湿気が抜けると、熾火を周りに寄せ、土偶を中心に並べていきますが、実際かなりの熱でなかなか容易ではありません。軍手をはいて、デレキで静かにおいていきます。しばらくすると「パーン」といやな音とともに、土偶の足が弾け飛んでいきます。

続いて土器を焼きますが、その間に黒曜石を使って大根の皮や白菜などを調理します。「これで切れるの?」「あっ、切れた!けっこう切れるんだ!!」とか何とか言いながら、周りに生えている雑草を切ってみたりしています。

次は縄文鍋の準備です。再び火をおこし、土器に水を入れ、沸かしていきます。ヤマセの勢いで土器の水もいつもより早く沸きます。その中に肉を入れ、再び沸騰したところで山菜や野菜を入れていきますが、火の熱でなかなか近づけません。すると見かねた小学生の男の子が、軍手をはいてお玉をとって、野菜などを入れてくれます。それを見ていた女の子たちもかき混ぜたりいろいろと手伝ってくれます。味付けをしたあとは、「もう少ししょっぱくてもよいかも・・・」などとみんなで味見をしてできあがりです。

天箱をテーブルやイス代わりにして、持ってきたおにぎりと一緒にアツアツの縄文鍋を試食します。「おいしい」と何度もお代わりをする子も少なくありません。そのうち土器も焼き上がり、灰の中から出して並べていきます。今年はほとんど壊れたものがなく、上々の野焼きとなりました。子供たちは自分の作品を見つけると大喜び、夏休みの宿題にするそうです。昨年参加した子はもちろん、今年初めて土器づくりに挑戦した子たちもとても上手で、来年以降の野焼きがとても楽しみです。Ka)

勢いよく燃え上がる

土器投入

縄文鍋の手伝い

本当においしい

試食タイムのはじまり

おかわりする子

その間に土器は焼き上がる 無事宿題GET 来年も参加しようね