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2002/6/25 | ||||||
博物館教室「ステンドグラを作ろう!」開催中(6/1〜7/14)
6月1日(土)より博物館教室「ステンドグラを作ろう!」が始まりました。生徒さんは、約9名。講師としてただいま開催中の企画展出品者、山口錬氏に来て頂きました。これから特別企画展の開催期間中、がんばって二作品をつくる意気込みで皆さん集まっています。町内はもとより、金木・五所川原方面からもわざわざ参加した方もいます。 今回の作品はランプシェード(足元ライト)と万華鏡。まずは、基本の硝子を先生が手本として切ってみせます。まるで魔法のようにスパッっと硝子が割れます。さて次は生徒さんが試してみます。あれ、ぜんぜん割れないどうして?原因は力不足。思ったより重労働になりそうです。 続いては銅線を、切った硝子に巻いていってハンダで接着します。これがまたかなりツライ。どうしてかといえば熱い。注意してコテを持たないとやけどの危険が・・・。生徒さんは、口も利かずに黙々と作業に従事しておりました。 早い人では一日でランプシェードを完成させました。「やはり、硝子の色使いにその人の個性がでますね。」と山口先生。硝子の色は自分で選べるので、全員が世界でひとつしかないものを作り上げることができました。 出来上がった作品を見て皆さん大変満足そうに自分の作品を眺めていました。「私にも一日で出来たんだから家族に見せて自慢したい」とニコニコ顔で帰った生徒さんもいました。生徒さんの作品の一部は今回の企画展示室にも飾っています。つぎは、ちょっと難しい万華鏡。果たして作品はどのようなものができるのでしょうか? |
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山口先生のお話(作り方の説明) | ガラスの色選び(20色以上) | ガラスに銅線を巻く | ||||
コテでハンダ付け | 接着面全体にハンダを・・(熱っ) | ランプシェードの形に点付け | ||||
2002/6/20 |
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平成10年(1998)8月4日オープンした中里町立博物館ですが、このほど2万人目の来館者を迎えることができました。
盛大に歓迎会!というわけにはいきませんが、ささやかなイベントを行い、スタッフ一同心を込めてお祝いしました。 栄えある2万人目の入館者は、青森市よりお越しの岩谷正三様。突然のイベントに驚いていましたが、記念品を渡し、事情を説明すると「ありがとう」とにっこり。 今度は、3万人目が目標です(Jin)。 |
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2002/6/18 |
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前回、お伝えした「貞伝作鋳銅阿弥陀如来立像」ですが、実は西北五地方ではすでに4体確認されています。青森県立郷土館
1998 「青森県の仏像-西北五地方編-」によれば、小泊村に2体(海満寺・個人蔵)、五所川原市に1体、板柳町に1体(慶峰寺)、このうち海満寺のものは小泊村指定文化財となっています。
先日中里町で確認されたものは、これらについで5体目となります。青森県立郷土館 1996 「特別展図録 西・北津軽の仏たち」では、 「貞伝仏はいずれも同型で、同一の鋳型から作られたものと思われる。背面に「貞傳作」との刻銘がある。胴体と台座を一体に表し、服制などは通常の阿弥陀立像に従っている。全体的にほっそりとした像形である。」と解説しています。ちなみに、海満寺・五所川原市のものは、土中から発見されていますが、その点については「信仰として金銅仏を土中に埋める風習は古く、代表的なものが平安末から鎌倉にかけての経塚であるが、時代的には江戸まで見られる。貞伝仏の祀られかたの在り方を窺わせる。」としています。 では、これら貞伝仏の由来についてはどうなっているのでしょうか。同図録では次のように述べています:
また、『今別町史』に収録されている「貞伝上人東域念仏利益伝」にも
とあり、信憑性は極めて高いようです。 これらからは、貞伝仏というのは、有名な青銅卒塔婆建立時の余った材料で、いまから270年ほど前の享保15年に作られたこと、原型は貞伝自らが彫り上げたことなどがわかります。しかも、弘前市の誓願寺本堂復興のために配られたということは、同市周辺にはかなり濃密に残されている可能性があります。その中には、同じ鋳型で作られたものもありそうです。 しかし1万体も鋳造しているということは、原型となったモデル・鋳型とも複数あった可能性が高そうな気がします。考古学的には同じ鋳型で作られたもの同士の関係を「同笵」と呼びますが、そうした観点から見れば、5体中もっとも表現の細かい中里町の貞伝仏は、比較的早期の鋳型を使用した、真正の貞伝作の鋳造仏といえるかもしれません。 それにしても、ふとしたことから見つかった新たな貞伝仏。文献以外18世紀前後の資料が少ない中里町にとっては、貴重な文化財となりそうです。 |
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中里町(表・裏) |
海満寺 |
小泊村 |
五所川原市 |
慶峰寺 |
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2002/6/7 |
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先日、地蔵菩薩の着替えを行うということで、中里町上高根地区にある西光庵へ行って来ました。庵には近所のお年寄りたちが集い、色とりどりの布で、前掛けや頭巾などを縫っていました。津軽地域では、十字の形の前掛けをした地蔵をよく見かけます。理由はよく分かりませんが、昔から代々こうして作ってきたとのこと。見る間に次々と衣装ができあがっていきます。
ところで西光庵は、庵主さんもいない小さな寺院ですが、『中里町誌』によれば、中里町深郷田地区にある浄土宗善導寺の末派で、天明3年(1783)同寺の廊道という僧が開基したものだそうです。あるいは飢饉の死亡者を弔うために建立されたものでしょうか。 本尊は、菩薩を伴った阿弥陀如来で、今別町本覚寺の5代住職貞伝の作と伝えられています。高さ45pほどのかなりの重量感のある石仏です。貞伝和尚といえば、太宰治『津軽』中のエピソードが思い出されます。蟹田に住む友人Nを訪ねた際に、貞伝が話題にのぼります; |
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この後、一行は外ヶ浜沿いに北上し、今別本覚寺に寄り、貞伝に関する珍問答を繰り広げることになりますが、その辺については本編を参照ください。
さて西光庵の石仏は、まったく紀年銘等が見られず、本当に貞伝作のものかどうかはわかりません。多少残念な気持ちでいたら、たまたま同席していた中里在住の葛西末太郎さんという方が、石仏にまつわる伝承を話してくださいました。 それによると、石仏は外ヶ浜の方から背負って持ってきたもので、小さな仏様も伴っていたそうです。 |
西光庵本尊(伝貞伝作) |
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何気にその仏像の行方を尋ねると、ご自身が所有してらっしゃるとのこと。見せてもらえないかと恐る恐るお願いしたら、すぐに持ってきてくれました。金属の筒に木釘で固定された仏像は、高さ5pほどの小さな仏像でした。「裏になんか書いてある」と言うので、木釘をはずして裏面を見ると、なんと「貞傳作」と刻書がありました(続く)。 |
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2002/5/15 |
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さて、武田小学校ならびにかつての武田中学校で歌われていた校歌は以下のとおりです(*ただし緑部分は小学校ひらがな表記)。戦前に制定された由緒のある校歌らしく、なかなかの格調ぶりです。
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一
東も西も隈なく照らす |
二
机に倚りて心を修め |
三
春は霞の岩木の高嶺 |
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ところが先般、中里町の前町長であるとともに武田小学校OBの塚本恭一氏より、不思議な話をうかがいました。その内容とは、現在歌われている武田小・中学校校歌は、実は戦後修正されたものだというのです。そうして、以前の歌詞を半紙に書いて寄せてくださいました。修正前の歌詞は以下の通りです。 |
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一
東も西も隈なく照らす |
二
机に倚りて心を修め |
三
春は霞の岩木の高嶺 |
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一見同じように見えますが、詳細に比較すると赤字の部分が、現在と異なります。その後調べてみると、『武田中学校閉校記念誌(平成元年刊行)』に元武田中学校教頭石川清一氏が寄稿された「思い出のわれらが武中」に、詳細な経緯が掲載されていました。 同文によると、戦後武田中学校が開校したものの、校歌がなかったため、戦前に作られた武田小学校の校歌をそのまま歌わせたとのこと。なんとなく、戦後の教育改革の慌ただしさが感じられるエピソードです。同校歌は、昭和13年(1938)当時の松野儀助校長が「どうせ作るなら最高の歌を」と考え、作詞を旧制弘前高校教授弥富破磨雄、作曲を有名な小松耕輔氏に依頼した自慢の歌だったそうです。 ちなみに弥富破磨雄は、熊木児出身の文人。国学院を卒業して学習院に教鞭をとり、ついで宮内省に転じ、現天皇はじめ各宮の伝育官を拝命しました。大正10年官立弘前高等学校に来任し、国文学の教授をしました。中里町とも縁が深く、尾別出身の女流詩人宮越麗子などと交友があったほか、富野に建立されている奈良七五郎記念碑の選文を手掛けるなどしています。 |
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さて、名校歌には違いはないものの、戦後になると時代に合わない部分が出てきました。昭和29年(1934)、「これではどう考えても民主主義の時代に合っているとは思われない」と考えた武田中学校第3代校長傍島市五郎氏は、早速自ら筆を執って歌詞を一部修正しました。 換骨奪胎というか、巧みに歌詞を入れ替えて、戦後に相応しい校歌に仕立てたあげた手腕には驚かされますが、後日談では、ある日東京から来校した著名な詩人が、校長自筆の校歌額に目をとめ「すばらしい詞だ」と激賞したとのこと。まさしく傍島校長の面目躍如といったところでしょうか。 |
傍島市五郎校長 |
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2002/5/2 |
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中里地域における学校教育の嚆矢は、学制頒布に基づいて明治8年(1875)に開学された中里小学ですが、その原点は嘉永5年(1852)弘前藩士工藤(古川)他山が主宰した私塾に遡ることができます。以来中里の学校教育は150年ちょうどの歴史を刻み、最盛期には14校が併立し、多くの子弟が学舎を巣立ってきました。 しかしながら近年は学校の統廃合がすすみ、かつての半数以上に及ぶ学校が閉校し、今年も大沢内・尾別小学校が1世紀余りにわたる歴史の幕を閉じました。4月27日から開幕した春の企画展では、「中里の教育−150年の軌跡−」と題し、これらの学校の歩みを振り返りつつ、思い出の学校生活や時代背景の移り変わりを紹介しています。 同企画展では、懐かしの校歌も試聴することができます。館内のコンピュータで、デジタル化した校歌を聴けるようにしたものですが、中里町立博物館ホームページの方でも徐々に公開しており、先日の薄市小学校校歌はその第一弾となります。 中里町薄市にある薄市小学校は明治10年(1877)の創立で、以来125年の歴史を誇る古い学校ですが、校歌ができたのは比較的新しく、昭和32年(1957)の80周年記念時に制定されました。それでも当時の弘前大学教授小山内時雄氏による詞は、格調の高い内容で、子供たちにとってはなかなか理解の困難な歌詞であるように思います。 そのような理由からか、町内でもっとも古い歴史を誇る中里小学校の校歌は、数十年ごとに改訂され、今年新たに制定された校歌は3代目となります。校歌の話題を続けると、中里町富野に所在する武田小学校も薄市小学校と同年に開校した歴史のある学校です。当初は富野小学校と称していましたが、大正14年武田小学校となりました。 武田小学校の校歌は、日中戦争の最中の昭和13年(1938)に制定されたものですが、おもしろいことに昭和22年(1947)創立の武田中学校でもまったく同様の、一字一句変わらない校歌が制定されたことです。独立した小学校・中学校が、同じ校歌を歌っているというのは珍しいのではないでしょうか。 |