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2006/4/10

小泊地区紹介ビデオが登場

博物館プロローグゾーンでは、従来中里地区の紹介映像「津軽半島の自然と中里のすがた(約5分)」を放映していましたが、このほど小泊地区の歴史や文化を収録した「奥津軽の潮騒−小泊の歴史と祭り−(約20分)」が視聴可能となりました。ナレーターは小泊出身のシンガーソングライター三上寛氏。大型液晶モニターによる大迫力の映像をお楽しみください。

2006/4/6

平成17年度中泊町文化財審議会開催!

去る3月30日(木)中泊町総合文化センターにおいて、中泊町文化財審議会(村越潔会長)が開催され、文化財関連事業や調査報告に対して、意見交換が行われました。

とくに無形文化財の申請がなされている「なにもささ踊り(中里なにもささ保存会)」については、昭和30年代以降に加えられた新要素が多いものの、一部には古態が残されているという調査報告に耳を傾けながら、活発な審議がなされました。同文化財については、次回審議会において正式な答申がなされる予定です。

2006/3/5
小泊地区の遺跡探訪3

中泊町小泊地区においては、今年度新たに3ヶ所の遺跡が発見され、合計24遺跡(中泊町全体では59遺跡)となりました。築上遺跡は、 国道339号線と、津軽沢沿いに延びる村道の合流点付近一帯が該当します。畑地より、円筒上層式土器片・石鏃・剥片等が採取されたことから、縄文時代中期の遺跡と推定されます。津軽沢に面した低位段丘上に立地することから、集落跡の可能性も考えらます。

冬部(2)遺跡は、 冬部川河口右岸に位置します。海浜沿いに4〜5ヶ所の焼土層が確認されましたが、複層にわたって存在するものもあります。同層中には、丸石や貝殻片の混入、漆喰状の層が認められることから、製塩遺構(貝釜)の可能性が高いと思われます。

青岩遺跡は、 青岩沢河口右岸の海岸段丘崖において発見されました炭化物・焼土層が複数確認され、冬部(2)遺跡同様丸石や貝殻片の混入、漆喰状の層が認められます。製塩遺構(貝釜)の可能性が高いでしょう。

残念ながら、両製塩遺跡とも、年代を決定する資料が発見されていないので時期は不明ですが、来年度以降予定されている試掘調査によって、釜跡の実態が少しでも解明されるよう期待しています。

築上遺跡全景
築上遺跡採集遺物
冬部(2)遺跡
冬部(2)遺跡製塩遺構
青岩遺跡
青岩遺跡製塩遺構
2006/2/9
小泊地区の遺跡探訪2

小泊地区の史跡といえば、何といっても安藤氏最後の砦「柴崎城跡」が著名ではないでしょうか。拠点十三湊を南部氏に攻められた安藤氏が、北海道に追われた経緯については、『満済准后日記』ならびに『新羅之記録』に記録されています。松前藩の事績を記した後者には、「嘉吉二年秋攻破十三之湊而乗取津軽、盛季没落而雖左右舘、籠以為無勢不克防戦、被追出去小泊之柴舘」「亦其以後嘉吉三年冬、下国安藤太盛季落小泊之柴舘渡海之後」とあり、嘉吉二年(一四四二)秋に十三湊を攻められた安藤氏は、小泊の柴舘に撤退、さらに翌年冬には、北海道へ落ち延びたとしています。この「柴舘」が「柴崎城跡」に相当すると考えられています。

従来柴崎城跡の位置については、神明宮付近とされてきました。確かに小規模な土塁や空堀跡が確認できますが、それらは神社として整備されたときに設けられたもののようです。 明確な遺構は他に認められず、城館としての構造はほとんど把握できませんでした。

柴崎城の存在にしだいに疑問を感じながらも、何気なく神明宮東側の台地をよじ登ると、何とそこには細長い平場とそれらを取り巻く帯状の平場、また平場の端には明確な堀切土塁が認められました。遺物 は発見できませんでしたが、おそらくこの場所こそが中世城館 「柴崎城跡」中枢部と考えられました。これは一大発見!と思いましたが、後でよくよく調べてみると、城郭研究者沼館愛三氏が、著書『津軽諸城の研究』において以下のように述べていることがわかりました。

本丸は今神明宮のある所で、三角標高一九九高地の尾根の末端に当り高さ六〇米、広さ方百米以下で、四周に土居及び空壕が廻らされている。東側谷を隔てて一つの小台地がある。之れは二の郭であろう。この東側は谷地が深く入り込み要害をなしている。城の大手は口は此の方面である。当郭及び本丸の南から東にかけて帯郭がまわっている。」

沼館愛三氏は職業軍人としての経歴を有し、戦後は戦術的な視点から東北地方の城館群を 概観し、『津軽諸城の研究』ほか『南部諸城の研究』『出羽諸城の研究』等の多くの著作があります。今回紹介した遺構群が、既に半世紀ほど前に発見されていたことに少しがっかりしましたが、沼館氏の慧眼に敬意を表したいと思います。


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