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2003/6/12
去る5月25日、中里町総合文化センター「パルナス」において、青森県文化財保護協会総会が開催されました。同協会(盛田稔会長)は、文化財の保護活用並びに青森県民の文化向上を目的として昭和30年に設立された広域文化団体(事務局:県立図書館内)で、毎年県内市町村持ち回りで総会を開催しています。

当日は、県内各所より80名程度の参加者が集まり、総会・特別講演会・町内巡検等を行いました。特別講演は、塚本恭一(前中里町長)による「岩木川の今・昔」。同氏は、岩木川下流域右岸に位置する武田地区出身で、岩木川の変貌ぶりを目の当たりにしてきた方です。

かつては、真冬の水戸口閉塞による洪水・春先の融雪洪水・夏から秋にかけての長雨洪水など水害常習地帯」と称された武田地区が、岩木川改修工事並びに十三湖干拓工事を経て、安全で快適な地域となり、我が国有数の穀倉地帯に発展した経緯を、ご自身の見聞から発表されました。

地元十三湖のシジミ貝汁付きのお昼の後は、博物館見学です。博物館では春の企画展「岩木川流域のくらし」を開催中で、参加者は、川舟や漁具、治水の歴史等を興味深げに眺めていました。

午後は、「岩木川と新田開発」をメインテーマとする町内巡検です。バス3台に分乗し、午後1時にパルナスを出発しました。五林神社・津軽鉄道・八幡御蔵跡・豊岡水郷集落を経て、武田地区富野の猿賀神社へ到着。同神社や奉納されている船絵馬、境内の般若寺イチョウなどは、すべて岩木川水運や新田開発と関連するという佐藤光男氏(浪岡高校教諭)の説明がありました。

続いて旧土堤から新土堤へ上がり、いよいよ窓外に岩木川の流れが見えてきました。芦野頭首工・アシガヤ工場を経て、岩木川河口へ到着。ヤマセ(東風)が吹き荒れる荒涼とした河口を背景に、佐藤仁氏(青森県文化財審議会委員)による、岩木川水運・治水・十三湖干拓工事の説明に耳を傾けました。

内潟跡を経て、バスは内潟地区今泉の十三湖岸公園に到着。吉田松陰遊賞碑を前に、荒関恭子学芸員による吉田松陰の東北巡遊についての説明を受けました。その後は、旧下之切道沿いに南下し、中里地区中里城跡史跡公園へ到着。標高50mの高所へ最後の力を振り絞って上ります。齋藤淳学芸員の説明の後、石碑前で記念撮影。パルナスには午後3時半過ぎに到着しました。

最後に盛田稔会長より挨拶があり、来年度は青森市油川で総会が行われる旨が告知され、再会を期して解散となりました。

総会の模様 塚本前町長による特別講演 シジミ汁付の昼食
バスによる中里町巡検 富野猿賀神社 岩木川河口
吉田松陰遊賞碑 中里城跡史跡公園 再会を期して解散
2003/6/7
おやこ文化財教室「バス探検ツアー@ 石碑・石塔の不思議」開催

6/7(土)、おやこ文化財教室の第一回目「バス探検ツアー@石碑・石塔の不思議」を開催しました。天気は晴れ。内潟地区と中里地区中心の子どもたち総勢11名が参加してくれました。今回は、中里町にある石でできた碑や塔を見て回りました。また、途中寄り道してツアー予定にはない「力石」「十三湖囲繞堤」なども見てきました。

−中里地区−

1 五林神社(五林)「五輪塔・宝篋印塔〜鎌倉・室町時代〜
五輪塔は一基、宝篋印塔は数基あります。鎌倉〜室町時代に作られたもので、現在中里町にある石碑としてはもっとも古いものです。もともと供養のために建てられたものですが、現在は五輪神社の神様として祭られています。伝説では大導寺オリの墓と言われています。

2 中里駅前(中里)「三界万霊供養塔(飢饉供養塔)」
「三界万霊、南無阿弥陀仏、有縁無縁」と彫られ、飢饉で死んだ人々を供養するために建てられたものと考えられます。中里地域では江戸時代飢饉がたびたびありたくさんの人が亡くなりました。さっき見学した五林神社の近くにも死者を葬った「イゴク穴」があったとされています。

3 中里駅裏山(中里)「庚申塔(青面金剛・猿田彦大神)」〜文政8年(1825)〜
「文政八年七月、青面金剛 願主、庚申様講中」と彫られています。人間の体内に住む、サンシという虫を除くことによって、長生きができるという信仰でたてられたものです。むかしの人は、庚申の日は寝ずに一晩お祈りしたそうです。

※寄り道(宮野沢)「力石」
むかしからこの地区の住民が力試しに用いた石で、重さは約160キロもあります。この石には、歴代の持ち上げた人の名前が彫られていますが、今まで持ち上げられた人は3名しかいません。(お相撲さんなど)みんな、大きくなったらこれを持ち上げられるようになりたい!

4 大沢内墓地(大沢内)「二十三夜塔」〜慶応元年(1865)〜
「慶応元年、二十三夜」と彫られ、二十三夜の月を拝むことによって、豊作を願う信仰によって建てられたものです。

五林神社五輪塔 神妙に説明を聞く参加者 ここに「有縁無縁」と・・・

−武田地区−

5 富野団地(富野)「甲子塔(甲子大黒天)」〜嘉永7年(1854)〜
「嘉永七年七月二十七日、甲子供養塔、講中」と彫られ、甲子の日の夜、大黒天をまつれば、豊作になるという信仰で建てられたものです。

6 浄土院(豊岡)「百万遍塔」〜安永2年(1773)〜
「安永二年二月十六日、百万遍供養塔」と彫られ、数珠を数人で回しながら、念仏を唱えることによって、病気の治療・予防を願う信仰のために建てられたものです。

7 協和分校跡(竹田)「十三湖干拓魂(入植十周年記念)」
竹田地区は戦後まもなく開拓されました。湿地帯のため、「腰切田」や洪水などに悩まされましたが、十三湖干拓事業によって、現在の見渡す限りの水田が広がっています。

8 鳥谷橋(田茂木)「内潟開田記念碑、中里町長、塚本恭一書」
かつての岩木川下流には湿地帯が広がり、内潟と呼ばれる大きな潟がありました。十三湖干拓事業によって内潟沼は、現在のような水田地帯に生まれ変わりました。

駅裏にひっそりと佇む石碑 43貫の力石 うーん解読不能・・・

−内潟地区−

9 賽の河原(今泉)「源氏山又市碑」
源氏山又市は今泉出身の関脇で、明治の角界で大活躍しました。

10 十三湖岸公園(今泉)「吉田松陰遊賞の碑 蘇峯菅正 敬書」
幕末の志士吉田松陰が中里を訪れたことを記念してたてられたものです。

11 上高根墓地(上高根)「忠魂碑」
「一等歩兵卒陸軍豫備故木村貞作君の墓、陸軍砲兵一等卒木村興八君の墓、明治二十八年十二月二十九日乙末」
日清戦争で戦死した地元の人の霊を慰めるために建てられたものでした。

今日は中里町にはいろんな時代のさまざまな形の石碑・石塔があることを勉強しました。途中寄り道などをしましたが、かなりいっぱい回ったのでみんなちょっとお疲れの様でした。まだまだ、中里にはむかしの石でできた重要な碑や塔があるかもしれません、みんな発見したらぜひ教えてくださいね。次回は、この石碑・石塔に彫られた文字をどんな風に保存していくかを学びます。拓本といって、墨で文字を浮き上がらせる方法ですが、目では読めない文字もこの方法を使うと読めるようになります。ぜひ参加してみてね。

浄土院百万遍 吉田松陰遊賞碑 郷土の英雄「源氏山」
2003/5/24
博物館こども教室「大地の恵み体験@田植え」開催

今回のこども教室は長年実施したいと思いつつなかなか実現できなかった、田んぼでの米作りです。
ここまでこぎつけるのには実は大変な紆余曲折がありました。当初の計画では、
博物館の裏庭に穴を掘って田んぼを作る予定でした。しかし、実際に穴を掘ってみると、石や粘土の大きいのがゴロゴロ出てきて全く田んぼに適さない土壌だということが判明しました。

日にちもいよいよ迫り、近隣の田んぼではもう田植えを終えているところもあります。マズイ・・・。そこで、急遽方針を転換し、昔ながらの米作りに近いということで中里町の自然農法の田んぼの一画をお借りして作ることになりました。自然農法を実践している竹谷覚さんには今回大変お世話になりました。もし、あのままパルナス裏庭で作っていても多分途中で挫折していたかと思うと・・・・。

田植えを待つ水田 昔の農作業について 揚水体験

5月24日の当日は、朝からとてもよいお天気となりました。集まった子供たちは飛び入りも含めて総勢15名。まずは、博物館で昔の農作業の格好をします。みんなドンジャ(丈の短い上着)を着るのも初めてでしかも今回はその格好で田植えをしてもらうため、袖と裾は紐でたくし上げて着ました。これに、田植長靴を履いて完成です。

みんな、お願いだからころばないで・・・(洗濯が・・)。ワゴンに乗って中里中学校まで移動。昔使った農具&昔の稲作りについて一年間の工程をパネルで説明してから、田植型や、コマザリ、水車などの使い方も体験してみます。機械のなかった昔は一年中田んぼの仕事にかかりっきりだったことがわかりました。

田下駄体験 自然米・田植えの説明 田植え開始

続いては、田んぼの所有者でかつ自然農法のエキスパートである竹谷さんに植え方を教えてもらいました。コツがわかったところでいよいよ田植え開始です。まっすぐに植えるための印を田植型を使ってつけたのですが、足が泥にとられてなかなか前に進まない様子です。あちこちで早くもキャーワーと悲鳴が聞こえます・・・(洗濯が・・・)といいつつも30分もすると一面に苗を植えることは出来ました。

田植が終わりそろそろみんなのおなかもすいてきました。手がドロドロなのでまずは中里中の水道で手洗い。いよいよ田植の時の食事の試食です。昔のひとは、これをコビルといって昼食の前に田んぼのあぜ道で食べたそうです。今回は畦にゴザをしいてお重や、五月重箱を並べ再現してみました。食べる前には、みんなでお神酒をあげて、田んぼの神様に豊作をお祈りしました。その後、早速試食をしてみましたが、普段食べなれない地味な味付けに最初は戸惑いながらも完食してくれた子もいました。

コビルも食べ終えて、最後にみんなで竹谷さんにお礼をして、今日はお終いです。今後、博物館では定期的に稲の成長観察会をする予定です。今後ののこども教室予定はA案山子作り、草刈B収穫C調理となっています。随時参加者を募集しております。秋にみんなでおいしいお米が食べれるようにがんばろうね。

コビルの説明 田植え時の食事 あぜ道で試食体験
2003/5/2
幻の「川舟」発見!と搬入

博物館では春の企画展「岩木川流域のくらし」開催に伴って、川舟の所在調査を行ってきましたが、先日岩木川河岸(中里町田茂木地区)に陸揚げされている川舟を確認しました。現所有者の三浦正也氏にお伺いしたところ、実父の与之進氏(故人)がヤツメ等の川漁に使用したものであることが判明。企画展への出品をお願いしたところ、ご寄贈頂く次第となり、5月2日(金)さっそく博物館への搬入作業が行われました。

所々に穴が開き、かなり朽ちている様子でしたが、無事ユニックに積載され博物館へ直行。慎重に降ろされたあとは、鋼管を利用した「コロ」上を、進水するがごとく滑走して館内へ搬入されました。荷解室は無事通過できましたが、展示室入口への直角コーナーで、ついに720cmに及ぶ巨体が引っかかりました。そのままではどうにもならず、最後は10数人がかりで持ち上げ、真横にしながら、ようやく搬入されました。

川舟(カワブネ)は、かつて岩木川水系の河川や溜池で盛んに利用された平底の木造船(長4間*幅1間*高42p)で、海運用のものと異なり、幅広で舷側が低いという特徴があります。往事は稲300島(600kg以上)を積載したと伝えられています。主に稲・干草・アシガヤ等の運搬や川漁に用いられていましたが、治水工事の進展による河川の流量・水位の低下、自動車の発達に起因する水運自体の衰退と、FRP等新素材のものに駆逐され、現在ではほぼ消滅したかのように思われていました。

川舟展示の意義

@産業資料的側面〜中里町の基幹産業である林業・農業の象徴
林業分野に関連しては、平成10年の開館に併せて、かつてヒバ材を輸送した津軽森林鉄道ディーゼル機関車を展示中です。かたや、近世以来の歴史を有し、稲・茅等を運んだ川舟を展示することによって、農業分野の象徴が誕生したことになります。
いずれも高度経済成長期を背景とする所得の増加や、道路の整備による自動車運送の発展により、相対的な役割低下を余儀なくされ、姿を消していったという共通点が見られます。

A民俗(空間)資料的側面〜山通り(中里・内潟地区)の文化に対する川通り(武田地区) の伝統的文化の保存
中里町は、昭和30年(1955)、中里町・内潟村・武田村の一町二村が合併して成立した町ですが、前二者は「山の文化」を有し、林業や畑作が盛んです。
一方、武田地区は岩木川低湿地帯に展開する集落で、独特な川の文化を有し、田作や漁業が行われています。川舟は、後者の文化を代表する民俗資料ということができます。

 

B歴史(時間)資料的側面〜近世以来の岩木川水運を表徴する資料
川舟を利用した岩木川水運は、江戸時代に著しい進展を遂げました。川筋の整備が進むと、
年貢米は川筋の御蔵に集められ、春先の大水を利用して大型船が川筋を上下し、十三湊に送ら
れ、鰺ヶ沢を経て江戸や大坂に送られました。
川舟は、近世以来の岩木川流域の歴史を語る重要な歴史資料とらえることもできます。

C交通資料的側面〜水運を代表する交通資料
中里地域における人々の交通手段は、1 徒歩→2馬・舟→3鉄道・バス(明治〜)→4自動車(戦後〜)と発展してきましたが、博物館では3段階として森林鉄道機関車、4段階としてス バル360(自動車)を展示しています。
2段階に相当する川舟の展示によって、当該地域の交通史を通観することが可能となりました。

展示された川舟

発見当時の川舟 無事つり上げ完了 コロ上を滑る川舟
難所の展示室入り口 横倒しにして取り舵いっぱい 所定の位置に安置終了