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2002/11/19
博物館こども教室「昔の秋仕舞い体験教室」開催!

博物館こども教室の特別事業として、去る11月16日(土)農作業を体験する教室―かつての秋仕舞い−を開催しました。ただ、今回の目玉は、鉄釜(てつがま)を使っての芋煮会の予定でしたが、前日からの雪模様でお流れになってしまいました。(残念です。泣;)

しかし、何とかして昔の暮らしを味わってもらおうと思い、博物館荷解室を大改造し囲炉裏端を作りました。 当日は秋仕舞体験として@千歯こき足踏み脱穀機による脱穀、A籾押し棒による脱粒、B籾通しチエ飛ばし唐箕による選別、C石臼による米粉づくり、D羽釜による炊飯・鉄鍋での芋煮づくりなどしました。

足踏み脱穀機や唐箕による選別後はちょうどお昼になり、羽釜でたいた雑穀飯、鉄鍋での芋煮汁を試食し、お腹いっぱいになりました。そのあとはみんなで石臼で白米を摺って米粉をつくり、それをさらに水で捏ねてお米せんべいに仕上げて、出来上がったものを囲炉裏にて炭火で焼いて砂糖醤油をつけて食べました。

焼きたての米せんべいを食べながら竹馬で遊んだりして一日中子供たちの歓声の絶えない一日となりました。次の「冬の遊び体験教室」の方にも皆さんぜひ遊びに来てくださいね。(Ar)

「秋仕舞体験」入口(下は鉄釜) @足踏み脱穀機による脱穀 A石臼による米粉づくり

皆で水で捏ねてお米煎餅づくり 煎餅を囲炉裏で炭火で焼いて 荷解室が囲炉裏端に大変身!
2002/11/10
博物館土曜講座3 中世豪族が見た「奧津軽」―十三湊遺跡と安藤氏

10月9日中里町総合文化センターパルナス研修室において、市浦村教育委員会安藤の里振興室榊原滋高氏を講師に招き、博物館土曜講座が開催されました。同氏は、富山大学在学中から足かけ12年にわたって、中世港湾都市十三湊遺跡の発掘調査に携わってきた、同遺跡研究の第一人者です。

気の早い受講者は1時間前から前席に陣取り、定刻には約30人の受講者がそろいました。榊原氏は、十三湊遺跡の地理的環境と歴史的環境について概観した後、スライドを使用して、九十三小学校グランドや港湾施設跡の調査や、今年実施された壇林寺跡の調査について詳細に解説しました。

受講者は、厚く堆積した砂層の下から現れる中世の柱穴や井戸跡、色とりどりの陶磁器群に驚きながら、安藤氏の活躍した中世の時代に思いを馳せていました。(Ju)

講師の榊原先生 遺物を片手に説明 今日の受講者
2002/11/9
武田小学校 4年生 来館!

去る10月31日武田小学校のみなさんが遊びに来てくれました。
武田小学校四年生(担任小田原先生+19名)のみんなは今回「岩木川について」というテーマで調べに来ました。

博物館では、岩木川の大正〜昭和〜現代と年代順にならべた岩木川の地図を大きく壁に貼って説明しました。昔の地図は十三湖に流れでる河口の部分が何本にも分かれ、またその河口線もバラバラです。しかし、現在は河口部分の埋め立てや、河川工事により岩木川は一本に統合されてとてもすっきりしています。

次に、もっと昔に遡ってみて縄文時代はどのようだったのか見てみました。縄文時代は今よりもずっと暖かい気候でしたので十三湖はもとより岩木川も海面下に沈んでいて現在の形をみることができませんでした。もっとずっと時代が過ぎるとようやく中里町と岩木川についての記述のある地図や文献がでてきています。

みんなの住んでいる武田のこともみることができました。武田小のみんなはすぐ近くに岩木川を見ることができますが、普段何気なく見過ごしている岩木川の詳しい歴史を新たに勉強して帰れたようです。今回は岩木川について博物館職員による説明もあり、約1時間ほどのあわただしいものとなってしまいました。今度は、もっとゆっくり遊びに来てくださいね。(Ar)

岩木川河口地図(大正) 岩木川河口地図(昭和初期) 岩木川河口地図(現在)

まだ岩木川がない(縄文時代) 一生懸命メモをとっていました 貞享の絵図では中里はどこ?
陸奥国津軽郡之絵図では武田はどこ? 武田地区のくらし 武田豊岡地区の様子を模型で観察
2002/11/6
博物館土曜講座2 思想家が見た「奧津軽」―吉田松陰

第ニ講として、去る平成14年10月26日(土)思想家が見た「奧津軽」―吉田松陰と称し、パルナス研修室において講演を行いました(13:30〜15:00)。

講師として柳沢良知先生(小泊村在住)〜現在小泊村歴史を語る会会長等ほか〜をお招きしました。受講者は、中里町町内はもとより弘前、五所川原、小泊、今別などわざわざ遠方から来られた方もいて総勢35名でした。前回参加された受講者に2枚の記念写真をお渡ししたところ、大変喜ばれました。

今回の講演は吉田松陰がテーマで@吉田松陰(1830〜59)の生涯、A松陰奧津軽へ、B算用師峠越え(みちのく松陰道)、C松陰の教訓を生かそう、D三厩から青森(外ヶ浜)、E津軽から帰った後の松陰、F松陰の死後というふうに松陰の人生がまんべんなく理解できるように講演されていました。

また、柳沢先生は、既存の出版物には記述されることの少ないお話もされていました。たとえば、松陰は中里町の誰の家に身を寄せたかな。どまた、現在の戸主まで調査されていて、町内の受講者などは「知ってるうちだ。」など感心され、中里町の新たな発見と再認識をされたようです。

また、松陰が通ったところは中里町十三湖畔にある遊賞碑として有名です。今回は博物館秋の企画展でも吉田松陰をメインに展示しておりますので受講者のかたは、講演が終わってから実際に萩からお借りした松陰直筆の手紙や書籍を見て帰られたようです。次回の講演は安藤氏がテーマです。(Ar)

講師の柳沢先生 熱心に聞き入る受講生たち
2002/11/5
博物館土曜講座  旅人たちが見た「奧津軽」(全5回)始まる!

中里町立博物館では、平成14年度あおもり県民カレッジ事業の一環として博物館土曜講座を開設しました。本州北端に位置する「奥津軽」地方は、古くから多くの旅人たちが訪れ、見聞した自然や歴史、風俗ほか、村々の様子等について記録を残しています。本講座では、そうした旅人たちの足跡を巡り、「奥津軽」を客観的に見つめ直すことを目標としています。

博物館土曜講座1 移動講座「旅人たちの足跡を辿る」開講

第一講として、去る平成14年10月19日(土)「旅人たちの足跡を辿る」と称し、バスによる移動講座「奥津軽」巡検を行いました。講師として佐藤 仁先生(弘前市在住)〜現在青森県文化財保護審議会委員・青森県史専門委員・青森県文化財保護協会副会長ほか〜をお招きしました。

受講者は、中里町町内はもとより五所川原、市浦、小泊、今別からわざわざ来られた方もいて総勢29名でした。当日の朝は、前日からの雨で曇り空でしたが、参加された受講者の皆様の日ごろの行いが良いせいか午後には晴天に恵まれました。

8:00に中里町総合文化センター[パルナス]を出発し、十三湖湖岸公園(中里町)→相内(市浦村)→十三(市浦村)→小説[津軽]の像記念館(小泊村)→眺瞰台青函トンネル記念館(三厩村)→竜飛ウインドパーク(三厩村)→竜飛崎駐車場(三厩村)→文学碑公園(三厩村)→階段国道(三厩村)→太宰治文学碑公園(三厩村)→中浜(三厩村)→三厩(三厩村)→本覚寺(今別町)→台場史跡公園(平舘村)というかつての文人や作家が訪れた道順を辿ってみました。中里町総合文化センター[パルナス]着は16:30となりました。

今回は@吉田松陰、A太宰治、B菅江真澄、C古河古松軒、D伊能忠敬、E松浦武四郎、E弘前藩巡検使らがかつて歩いた道を辿り、その著作の一文を追いつつ、かつての津軽と現在の状況を見比べてみる事ができました。

途中、小説[津軽]の像記念館(小泊村)と青函トンネル記念館(三厩村)では館内見学などもし、いろいろな資料にも触れることができました。松陰や太宰の石碑前では記念撮影などもし、次回の講演までに記念として皆さんに差し上げることにしました。

また、バスの中では佐藤先生が用意してくださったビデオやカセットテープで津軽半島に関連したドラマの放映(青函トンネル記念館・竜飛ウインドパーク)、津軽森林鉄道の姿がみられる三国連太郎主演の「飢餓海峡」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」などの映像と音楽も併せて見ることができました。眺瞰台・階段国道(三厩村)などは実際に登ったり下りたりで「良い運動になりました」といっておられた受講者の方もいてなかなかハードなものとなりました。次回の講演は吉田松陰がテーマです。(Ar)

青函トンネル記念館前 竜飛崎文学碑公園 竜飛崎の絶景
階段国道 太宰治文学碑公園 本覚寺
青銅卒塔婆 台場史跡公園 佐藤先生による台場の説明
2002/8/20
かなり前(2ヶ月程前)の話になってしまって申し訳ありませんが、博物館では津軽神楽の見学に行ってきました。その時の、模様をお伝えしたいと思います

6月16日日曜日、朝からの快晴、今日は中里町豊岡神明宮のほうにお邪魔させていただきました。今日は年一回の例祭日にあたり、神楽を奉納する日となっています。神明宮境内には他にも、天満宮・猿賀神社・賀茂神社の計4つが建立されています。

この神明宮は、鬱蒼とした木々に囲まれた広い敷地内の中心に位置しています。とても由緒ある建物で「安政年中取調帳」によれば元禄13年9月に再建とあり、かなり古いものだと伝えられています。
そこで、今回は津軽神楽とともに、津軽地方における神社関係の歴史などにも触れてみたいと思います。

角川日本地名大辞典(1985)によれば、
豊岡神明宮元禄元年、津軽信政(注1)が新田地帯の鎮護のために草創したと伝えられ、元禄13年豊岡村(注2)南端に移されたとされます。御祭神は天照皇大神で、寛政、文化、文政、弘化の御棟札(注3)が残っています。ちなみに、加茂神社も同13年に創建されています。現在は、神職数2名、和田朋子氏が県内でも珍しい女性宮司を務めています。

ちなみに、加茂神社には「御共鳴弦御守二通」が残されています。鳴弦守とは神弓の弦を鳴らして妖魔を追い払う神事のことです。加茂神社にあるものは、7代藩主津軽信寧が吉川源十郎を伊勢に代参させ、五穀成就の鳴弦行事を行い、領内諸社に30通を配布したもののうちの2通とされます。
(Ar)

(注1)津軽信政:弘前藩4代藩主。幼少から向学心が強く、寛文元年(1661)16歳で山鹿素行に入門、儒学と兵学を修めました。また、吉川惟足に入門して神道と国学を学び、神道による領内強化を推し進めたとされます。

(注2)豊岡村:江戸期〜明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。中里町誌においては、明暦元年葛西甚兵衛によって開かれたと伝えられていますが、他記録では元禄年間としています。

(注3)御棟札:建造物の由諸や建築年月日、施主や職人の名、あるいは祈願文などを記した札。

神明宮(正面) 奉納札 神社全景

祝詞(宮司 和田氏) 津軽神楽(神入舞) 津軽神楽(天王)

           

 津軽神楽(千歳)     津軽神楽(宝剣)     津軽神楽(磯良)    宮司(和田 朋子氏)