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2007/9/6

博物館下前分館特別公開実施!(8/15)

去る8月16日中泊町博物館下前分館が特別公開され、下前地区住民ほか152名が、小泊地区に伝わった民具や漁具などを懐かしげに見て回りました。延々と続く坂道、蒸し暑い館内という悪条件にもかかわらず、来館された皆様に感謝申し上げます。

なお今後の見学に際しては、事前の予約が必要となります。管理体制の都合上お断りする場合がありますので、予めご了承くださいませ。

見学申込先: 中泊町教育委員会小泊事務所 電話 0173-64-2679
見学可能日時:月〜金曜日(祝日・年末年始を除く)、9:00〜17:00

昔の道具を懐かしげに見学する高齢者たち

小泊港築港・発電所開設等小泊の発展に尽力した山十二(秋元家)コーナー

ライオンベイブリッジモニュメント製作者である彫刻家田村進先生の記念室

2007/8/20

第3回岩木川子ども自然体験学習会「ヨシ船づくりと岩木川カヌー、ヨシ舟体験」開催!

去る8月8日〜9日NPO法人岩木山自然学校(高田敏幸代表)主催の岩木川子ども自然体験学習会第3回「ヨシ船づくりと岩木川カヌー、ヨシ舟体験」が開催され、津軽地域の小学生ほか21名が参加しました。

ヨシ(アシ)は河川敷など、湿地帯に自生するイネ科の植物で、大きなものは4〜5mにもなります。今回の学習会は、このヨシを原材料として全長7m、10人乗り程度の舟を製作して、実際に岩木川を航行しようというものです。元来岩木川下流域で用いられた舟は木造で、イネ科の植物を利用した舟は知られておりません。しかしながら、古代エジプトや南米のティティカカ湖の葦舟が知られているほか、形や構造は不明ですが『古事記』にも葦舟の記述が認められます。ヨシ自体が中空で浮力があることこから、筏と舟の中間といったところですが、木材の極端に不足するところでは重宝しそうです。

地元に自生する材料で造られ、やがて風化し土に還る超エコロジカルな舟の製作時間は、20人掛かりで約5時間。決して簡単ではありませんが、苦労した分満足感・達成感が得られます。今年は天候の影響で、試航はできませんでしたが、来年度はぜひ岩木川に浮かべ、乗り心地を試してみたいと思います。

舟の製作はヨシの手配・製作場の提供等にご協力いただいた鈴木さんのあいさつからはじまります。

2〜3束程度のヨシを組みあわせて長さ7m・径30cm程度の細束をつくり、梱包用テープで仮止めします。

数10cm間隔に紙紐で縛っていきます。指に紐が食い込むなど、これが結構つらい作業となります。

細束を3〜4束まとめて太束をつくります。船首並びに船尾は湾曲させます。

さらに太束を3つ組みあわせて船体が完成です。

舷側に細束を括り付け、船体補強のため竹を打ち込みます。

重量約200kgのヨシ舟を運搬します。

本日の宿泊地は大沢内溜池公園。

夕食メニューはカレーライス。大鍋で野菜を炒めます

男子チームはトイレ掃除。積極的に取り組みます。

テント村が出現。

翌日は残念ながらどしゃぶりの雨と雷。

急遽会場を博物館今泉分館に変更。岩木川を航行しているつもりで記念撮影。

3班に分かれて、1/4程度のミニチュアヨシ舟を製作します。

本物と並べてパチリ。

2007/8/11

第2回岩木川子ども自然体験学習会「岩木川カヌーでゴミ拾い大作戦」開催!

去る7月28日〜29日岩木川子ども自然体験学習会第2回「岩木川カヌーでゴミ拾い大作戦」が開催され、津軽地域の小学生19名が参加しました。同学習会は、NPO法人岩木山自然学校(高田敏幸代表)が主催するもので、今年で5年目を迎えます。

今年度2回目となる今回は、岩木川をカヌーで下りながらゴミ拾いを行い、日常とは異なる視点から岩木川をながめつつ、自然環境の保全について学びます。五所川原市乾橋付近から離岸したカヌーの一群は、水面に浮かぶ空き缶やナイロン袋等を回収しながら、岩木川を下ります。

このあたりは岩木川でもっとも勾配の少ない流域であることから、カヌーを前に進めるのは大変です。しかも折りからの悪天候も行く手を阻みます。それでも約3時間かけて、目的地のつがる市稲垣河川公園に無事上陸することができました。一生懸命パドルを操った子どもたちは比論困憊の態でしたが、カヌー一艘分に達したゴミを前にとても満足気でした。

今回は大きなボートも登場。
乾橋付近から次々と離岸するカヌー。
突然の大雨。木陰に緊急待避。
雨と川の水でびしょぬれ。
橋の下はかなりの急流。
カヌーを数珠繋ぎして、乗り替わります。
2007/8/3

中泊町博物館「下前分館」特別公開のお知らせ!

小泊地区の民俗資料を収蔵した「下前分館(旧下前小学校)」を、なかどまりまつり期間中、特別公開します。漁業・農業・林業・生活雑貨などの収蔵展示をおこなっているほか、彫刻家「田村進先生のコーナー」や「山十二(秋元家)コーナー」をご覧になれます。

なお8月16日以降は、事前の申し込み等必要になりますので、この機会にご覧ください。

また駐車スペースが少ないので、車でご来館される方は「すくすく下前館」駐車場ほかをご利用ください。

公開日時 8月16日(木)

午前10時〜午後3時

ドゲ舟(中泊町指定文化財)
漁具
漁具
山樵具・鍛冶道具
生活雑貨
田村進先生のコーナー
2007/7/20

平成19年度冬部(2)遺跡試掘調査速報!

昨年度に引き続き、小泊の歴史を語る会(柳澤良知会長)の協力を得て、塩釜と考えられる遺構の調査を行いました。今年度調査では、海水を煮て塩をとるための「土釜(塩釜)」跡ならびに海水を貯めておく「貯水槽」跡と考えられる遺構構造の一端が明らかとなりました。

「土釜」跡と推定される遺構は、貝殻・河原石と海水を練り合わせたセメント状の石灰粘土で作られており、移植ベラが刺さらないほど硬質です。径3〜4m数畳程度の大きさのものが複数重なって見つかっていることから、何度も作り替えられた様子がうかがわれます。釜縁と推定される遺構も検出されました。

「貯水槽」跡と仮定した遺構は、大きな河原石を石垣のように組み合わせた精巧なもので、水が漏れないようにしっかりと粘土で覆われていました。 海側の部分が失われていますが、残された部分から8畳程度の大きさと推定されます。このほか海獣類と考えられる焼骨一体分も出土しました。

これらの遺構ではどのような塩づくりが行われていたのでしょうか。小泊地区における塩釜の記録は、貞享4年(1687)『陸奥国小泊村御検地水帳(弘前市立図書館蔵)』巻末の「但塩竈拾九箇所有」に遡ります。右の記事から少なくとも近世前期には、小泊地区の海浜において20釜近くが操業していた様子がうかがわれます。 その後『御国日記』等を中心に記述が認められますが、近世後期から末にかけては旅人による紀行文が塩釜の様子を詳しく伝えています。

寛政5年(1793)三厩方面から小泊に入った水戸藩士木村謙次「ヤカタ石ヒヨベオリコシ内ナト二里ハカリノ無人ノ地只焼塩ノ小舎二三所アル所ヲ経テ小泊ニ至ル(『北行日録』)」という記載をはじめ、寛政8年(1796)小泊を訪れた菅江真澄「青岩ノ崎、屋形石などしほがまふたつ過ぎて(『そとが浜奇勝』)」ほかから、折腰内矢形石間に小屋掛けの塩釜があったことがわかります。

とくに詳細な記録を残しているのが弘化元年(1844)に来訪した松浦武四郎です。紀行『東奥沿海日記』では

「此岬を廻て山に添て暫にシヲヘナイ 此処小湾にして上に田少し有。又海岸に小流有。側に塩がま有。年中此処にて汐を汲みて塩を焼くなり。その仕方一向世話のなき様成ものなれ共、薪は至て沢山に入るよし聞けり。焼方は備前辺にて焼様なもの也。又汐を汲ハ海中に櫓をかまひ、是に汲入トウユにて釜に来る様となす也。其仕方至簡なれ共、他国にては中々薪に引合がたしと思はるゝ也。又十七八丁も行。又二ヶ処有。」

と延べ、現在の「冬部」に比定される「シヲヘナイ」の塩釜に関心を寄せています。 松浦武四郎の記述からは、海中に組んだ櫓から浜まで樋を渡すことによって釜まで海水を導入し、いわゆる「海水直煮」によって製塩していたことが理解されますが、釜自体の構造については説明がありません。

一方小泊ではありませんが、今別・磯松の塩釜について同様の描写がある比良野貞彦『奥民図彙(天明年間)』では、「塩釜ハ土ニテ作ルモアリ又銅或銭釜 其処ニヨツテサマサマアリ 何モ大キサ九尺ニ六尺計ナリ」と、3畳ほどの大きさの土釜や金属製釜であったことを記しています。また同じ頃の黒崎(深浦町)の塩釜について言及している管江真澄「このはまは海士、あななゐのたかきにのほりて、はねつるへして寄来る浪をくみて筧になかし、貝釜におとしいれて鹽やきたり。たれ潮てふものは、磯におまします神の好給はねは、みなかかる貝をねりてかまとなし、あら汐を其まま煎てけると。」と、やはり樋で海水を釜にかけ流す方法を説明し、塩釜は「貝釜」であるとしています。

以上近世諸記録からは、冬部の塩釜が近世の「土(貝)釜」である可能性が示唆されますが、果たして「土釜」とはどのような構造だったのでしょうか。北林八洲晴氏は、『日本塩業大系』所載の史料を引きながら、明治時代三陸沿岸の土釜の製作方法を次のように説明します。

土釜(焼貝殻粉粘土釜)
  土釜の分布は、東北、北陸、関東、東海すなわち東日本の海岸で、東京湾を除くと直煮製塩ないし自然浜の地域に分布した。沿革については、東京湾では天正19(1591)年以降ということになっており、その発生については明白でないが近世から明治期まで用いられたことは明らかである。構造は釣釜の形態で、原料は蜆、浅蜊、蛤、あかざら貝、帆立貝、牡蠣、鮑などを焼き、粉末にし、これに苦汁あるいは鹹水を加えて粘土化したもの。大きさは縦横4mを大とし、小は4mに2.8mほどのものである。

土釜(焼月殻粉粘土釜)の釜と竈
  材料となる貝殻は一昼夜蒸し焼きにして搗き砕き、粉末とする。1釜分に使う貝殻は4斗五升入り俵9俵すなわち約4石(721.56g)必要であった。そして粉末は海水、苦汁あるいは鹹水を加えて練り、石灰粘土とする。東京湾ではこれのみで、敦賀若狭では土を混じ、北陸方面では小石を混合した

@竈 竈は灰と苦汁あるいは鹹水を練り、あるいは古釜を壊して海水でこねて築いた。大きさはその予定する釜の大きさと同じであるが、周囲の高さは約30pほどであった。内部構造はよく分からないが、東京湾のような大型のものであれば灰出し溝を造ったものもあったと思われる。竈の上に釜を密着させて造ることは石釜の場合と同じで、その方法も基本的には同じである。

A釜 まず、竈の上に15cm角根太を3本縦に並べ、上に幅10pばかりの板を敷き詰める。北陸では根太を2本の上に竹を並べ、更に茅簾を敷き藁を置いた。板の場合は上に鹹水を注ぎ灰を散布し藁を敷き更に枯れ草を敷き、その上全面を簀で覆った。この上に石灰粘土を塗りつける。厚さは約2pである。北陸では方3pに1個ずつの小石を並べ、小石の見えなくなる程度に粘土を塗り詰める。したがって厚みは3cm以上となろう。いずれも表面は打ったり摩擦したりする。終わると約30p間隔に経緯線を付け、釣金を植える。これの固定に平沼新田では水簸した粘土を用いたのである。この後、釜の周囲に高さ12cm、厚さ3cm、北陸では高さ9cmの釜縁を立てる。釜の平面形は東京湾では方型、北陸は楕円型ないし隅丸方型が一般的である

  釜の原型ができると焼き固める。東京湾では萱・篠などを燃料として表面を2回ないし3回(1回約4時間)、北陸では割木でもって一昼夜焼いていたようである。後は釣金を直し次に梁に釣る。この方法は石釜の場合と同じである。釣り終わると釜下に敷いた板・根太を抜き去り、その隙間を塗りこめる。この後は鹹水を釜に注入して約4時間沸騰させ釜造りを終わる。釜の寿命は行徳で約20日、大師河原で50〜60日という。
(北林八洲晴 2003 『断章 青森の製塩跡考』)

これらから、土釜が明治時代前期まで使用されたこと、構造的に竈と釜に分かれること、木や竹・草本類等の心材に貝殻粉と海水等を練り合わせた石灰粘土を塗り固めて製作した吊釜であること、大きさは比良野貞彦等の記述に一致すること、耐久性1〜2ヶ月程度であること、などがわかります。

 

とくに冬部(2)遺跡の「土釜」跡との関連で注目されるのが、北陸地方では石灰粘土に小石を混合するという点です。また全体の形状や釜縁の寸法も略一致するように思われます。断定はできませんが、小泊地区の塩釜は北陸地方の系譜を引いている可能性があります。

製塩遺構の年代については「土釜」上層から出土した1点の陶磁器が手がかりになりそうです。高台付の染付碗であり、外面は「東屋山水文」が描かれ、見込には手書き文様と共に、三足付ハマ(重ね焼き用の窯道具)跡と推定される熔着痕が認められます。身の深いいわゆる「広東碗」と称される器形であり、本来は蓋付であったと考えられます。

この広東碗は、形態や窯道具痕から、19世紀前半を中心とした時期が推定されます。したがって、塩釜操業の年代は、江戸時代後期(19世紀前葉)以前の可能性が高まりました。このころ小泊を訪れた管江真澄松浦武四郎が見た冬部の塩釜は、まさしくこれらの遺構だったかも知れません。

汀線間際のトレンチ。高潮時には完全に水没します。

砂層下から「土釜」跡と推定される焼土と無数の河原石から構成される集石遺構が出現。

複数の「土釜」跡が重なっています。1基の大きさは径3〜4m程度でしょうか。河原石には漆喰状の白い付着物がびっしり。

断面を観察すると、焼土・石灰粘土・河原石から構成される「土釜」跡が3基ほど重なって見えます。石灰粘土層は、コンクリート状に硬化した部分もあれば、漆喰状にボロボロになった部分も。

釜縁と推定される遺構。ひっくり返った状態で発見されました。石灰粘土から成っており、径5cmほどの河原石が埋め込まれています。

「貯水槽」跡と推定される石組遺構。海側部分が失われているとともに、隅丸方形状を呈することがわかります。貯水量は16立方メートル程度か。

「貯水槽」跡底面は、焼締まった粘土で覆われており、剥がすのにだいぶ苦労しました。

調査終了間際、焼けた石とともに動物の頭骨が発見されました。

頭骨の下には脊椎ほかの骨が埋もれていました。ずいぶんと大きな骨ですが、一体何者でしょう?


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