博 物 館  ニ  ュ  ー  ス

過去の記事   1998年  9月 | 10月 | 11月 | 12月   1999年  1月 | 2月 | 3月 | 4-5月 | 6-7月 | 8-9月 | 10-11月 | 12月    2000年  1-3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9-10月 | 11-12月   2001年  1-2月 | 3-4月 | 5月 | 6-7月 | 8-9月 | 10月  | 11月 | 2002年 12月-1月  | 2月-4月  | 5月-6月  | 7月-8月 | 9月-11月 | 2003年 12月-1月  | 2月-4月  | 5月-6月  | 7月-8月  | 9月-3月 | 2004年4月-6月 | 7月−12月  | 2005年1月-5月  | 6月-8月 | 9月  | 10月-1月 | 2006年 2月-4月 5月-7月 | 8-12月 | 2007年 1月−7月 | 8月−9月 | 10月−11月 2007年 1月−3月 | 4月-6月7月-8月

2008/12/3

「貞伝仏」と「意全仏」(その2)

北海道開拓記念館の展示図録『北海道開拓記念館 総合案内−改訂新版−』に、一体の小仏の写真が掲載されています。最初「貞伝仏」かと思いましたが、キャプションは「意全仏」となっており、次のような解説が加えられています。

「この意全仏は、石狩場所請負人であった阿部屋村山家貞伝仏とともに伝わった。津軽半島今別の本覚寺住職貞伝がつくった貞伝仏は、海難よけのお守りとして、船乗りや漁業者の信仰を集めたことで知られているが、津軽青森の正覚寺住職意全の作と推定される意全仏も、同様の信仰の対象になっていたのであろう。」

青森市国道7号線近くに位置する浄土宗無量山正覚寺は、津軽三十三観音二十二番札所としても知られ、寛永3年(1626)弘前誓願寺末寺竜泉寺の住職、龍呑上人によって開山されたと伝えられます。北海道開拓記念館の氏家 等氏の論考によれば、意全和尚は、弘前市西光寺を皮切りに、五所川原市(旧市浦村)十三湊湊迎寺を経て、青森市正覚寺の第二十三世住職に就任したとされます。

意全仏の詳細な制作年代はわからないものの、氏家氏は、@西光寺蔵の掛軸の裏書から文化13年(1816)には西光寺に在職していた、A弘化3年(1846)入寂と伝えられること、B阿部屋村山家には安政5年(1858)にもたらされた、等から「貞伝仏」の約100年後の19世紀前半に制作されたものと推定しています(氏家 等 2007『移住とフォークロア−北海道の生活文化研究−』)。

また「意全仏」は銅製で高さ5.7cm、貞伝仏よりやや大きく、背面に「意全作」との刻書が認められ、北海道開拓記念館ほか、長万部町・利尻町、青森県では旧市浦村等で確認されているとされます。貞伝仏よりも確認例が少ないことが予想されますが、最近小泊地区より同様のものが発見されました。

厨子に納められた阿弥陀如来立像は、貞伝仏とよく似ていますが、背面には「意全作」と刻まれています。下部が台座に埋め込まれているため正確な寸法はわかりませんが、氏家氏が述べる「意全仏」の特徴と一致します。おそらくは北海道開拓記念館の展示図録の解説のとおり、「貞伝仏」同様、船乗りや漁業者の信仰によって、小泊地区にもたらされたものと考えられます。

「意全仏」がどのくらい制作され、青森県内にどの程度遺存するのか、全く不明の状況ですが、「貞伝仏」と併せて今後注意していく必要がありそうです。

厨子に納められた「意全仏」
2008/11/16

「貞伝仏」と「意全仏」(その1)

中泊町では、「貞伝仏」あるいは「万体仏」と通称される一寸あまりの鋳銅仏が、現在のところ7体確認されています。青森県東津軽郡今別町に所在する浄土宗本覚寺第五世住職貞伝上人(1690〜1731) が晩年に製作したものと伝えられています。 享保元年(1716)本覚寺住職に就任した貞伝は、多聞天堂の建立、本堂の再建、撞鐘鋳造など同寺の振興に努める傍ら、蝦夷地布教、彫刻・仏像等の制作、漁法指導など多方面にわたって活躍し、現在でも外ヶ浜地域では崇敬の対象となっています(肴倉彌八編 1967『今別町史』)。

貞伝上人の事績を記した「貞伝上人東域念仏利益伝(『今別町史』所載)」によれば、享保12年(1727)貞伝は古金物など700貫を募って「青銅塔婆(県重宝)」を建立し、さらに余った地金で享保15年(1730)長さ一寸二分の阿弥陀像一万体を鋳造し、弘前市誓願寺本堂復興のため、浄財とひきかえに信者に与えたとされます。

享保15年(1730)誓願寺において配られた万体仏は、津軽地方を中心に、南は新潟県から北は北海道まで広範囲にわたって遺存が確認されています。西北五地方においては、小泊地区6体、中里地区1体、五所川原市2体、板柳町1体の計10体、このほか弘前市10体、今別町2体、平川市2体ほかが知られています。 県外では、北海道福島町に7体(福島町史編集室編1995『福島町史 第二巻 通説編(上)』)、隣接する松前町内でも多数残されていると伝えられます(松前町史編集室 1994『概説 松前の歴史』)。さらに北海道開拓記念館が収蔵している3体の貞伝仏も松前町・福島町・伊達市など道南部から収集したものとされています(氏家 等 2007『移住とフォークロア−北海道の生活文化研究−』)。

さらに新潟県糸魚川市でも一体確認されており(糸魚川市 榊 正喜氏よりご教示)、日本海航路を通じて拡散している様子が見て取れます。悉皆調査が実施されていないため詳細は不明ですが、現時点では、配布地の弘前市と、津軽海峡を挟んだ小泊ならびに松前地方に分布の中心が存在するようです(*オークション等においても複数の貞伝仏が確認されることから、潜在数はかなりの規模になると予想されます)。

貞伝仏は、一般にお守り用の携帯仏として使用されたほか、副葬か単独埋納かは不明ですが、土中から発見された資料も認められます(青森県立郷土館 1996『特別展図録 西・北津軽の仏たち』)。

北海道福島町では幸運をもたらす仏像として、松前町では海上安全・豊漁の仏様として、津軽地方では、船玉様としたり、船体に埋め込んで祀られる例も知られています(氏家 等 2007『移住とフォークロア−北海道の生活文化研究−』)。

またお寛政元年(1789)クナシリアイヌの蜂起によって、和人71名が殺害された「クナシリ・メナシの戦い」に関連して、 同事件の顛末を伝える『夷諺俗話』(1792)では、貞伝仏と引き換えに助命される南部大畑村出身の傳七なる出稼ぎ者が描かれており(氏家 等 2007『移住とフォークロア−北海道の生活文化研究−』)、当時の松前稼ぎの人々の間でも万体仏信仰があったことが伺われます。

これらから貞伝仏信仰の一端に、漁民や船乗りたちが介在することは明らかであり、津軽海峡を挟んだ地域に同仏が多く分布する理由も、それらの信仰の一環と理解されます。

貞伝作万体仏は、近世中期に制作された鋳銅製の大量生産品ですが、来歴が明かであるとともに、当時の漁民・船乗り達の信仰の在り方が伺われる貴重な民俗文化財と考えられます。

中泊町所在の貞伝仏
2008/10/12

飢饉にまつわる説話と供養塔

江戸時代中期には、金木新田が成立し、ほぼ現在の中里地区が完成をみましたが、そのあゆみは必ずしも順調とはいきませんでした。
水害・天候不順等の災害が跡を絶たず、集落の移転・廃村もまた珍しくなかったのです。とくに凶作に伴う飢饉の凄惨さは筆舌に尽くしがたく、多くの哀話が残されています。たとえば中里町誌「凶作哀話」や、その底本となった内潟村史「荒歳雑説」では、次のような陰惨な逸話が地域の伝承として掲載されています。

よその子供汁
現在の内潟村にもある口碑として傳わつてきた凶作当時の惨状を述べさして貰う。「講釈師見て來たようなうそをつき」ということがあるが筆者が講釈師でもなんでもない古老から聞いて知つていただけを述べてみたい。小学校四年のあたり巖谷小波の安達が原というお伽噺を読んでうんざりしたものだが、この話はその鬼婆もどきである。先づ斯うだ、

仲のむつましい老婆二人いつたりきたり、欠伸一とつする毎にナンマンダを唱みようして麻糸を捻つている隣の婆さんのうちである、囲炉裏に五升炊き程の鍋を吊つていて、さつきからぐつぐつ煮えたいたが一向に おろそうとしない、向いの婆さんおかしいなと思つたもし、ぢやが芋ならいつも蓋をとり皮が裂けていると「煮だはで食うべや」と言つて出す筈だが、いつまでも蓋の上から注いで煮ているので一体何を炊いてるのかわからない。一計を案じた「婆ちやけう侍の喧嘩見たぢや、一人の侍が刀を拔いて眞向から斬るにかかつたら相手の侍はそれを受けとめるね板きれを持つて斯う受けたね」と言いながら手振りを眞似て鍋の蓋を手早く手にとつた、さあ事だ、大変な状景が展開されたのである、鍋の中には赤兒が煮られていたのだ、煮ていた婆さんでなく蓋をとつた向いの婆さん、ひやつと叫んで後倒あおむいたきり失神してしまつた。

話した古老は言つた、実際そんなことがあつたのだ、他所の子供の死骸を拾うて來てひもじい腹を充たすのであるよと。ところがこの時代は天明か天保かわからない、只ケガツの時とヘえてくれただけであるから最も惨害の酷かつた時代に遡及される。然しこの惨話時代であるかないかわからないが筆者が幼少の頃老人たちが已の年のケガツ云々よく話された、己の年とすれば丁度天保四年(癸巳)であり大凶作である。いかにわれわれの祖先が悲しい試錬を経、辛酸をなめ尽くしたことか推し計られよう。

『内潟村史』「荒歳雑説」より(なお『中里町誌』にも「赤子を煮ていた老婆−上高根の民話−」として再録されている)

中里地区に隣接する五所川原市金木地区には複数の飢饉供養塔が存在します。一つは、津軽鉄道金木駅ホーム南端東側にある供養碑群。もう一つは、商店街から一本北側の道沿いにある供養碑群。いずれも天明・天保飢饉で亡くなった人々を弔ったものです。中里地区には飢饉供養と明記された碑はありませんが、その可能性のあるものとして、派立地区にひっそりと佇む「三界万霊塔」を挙げることができます。

同碑には「三界万霊、南無阿弥陀佛、有縁無縁」と刻まれているほか、地域では、飢饉時の伝承に因んで「清十郎地蔵」として祀られています。中里町中央公民館によって編纂された『中里町のむがしこ』という冊子には、「清十郎地蔵の由来」と題して、凶作時に起きたヒバの盗伐事件の顛末が掲載されています。

飢饉時飢えと寒さに困り果てた中里派立の村人達は、集団盗伐を行って寒さをしのいでいましたが、いつか山役人の知るところとなって、全員が刑を受けることとなりました。そのとき清十郎という村人が、私が山役人の許可をもらったと偽って皆に盗伐させたと申し述べ、自らの処刑と引き換えに他の村人の助命を願い出ました。こうして清十郎は現在の津軽中里駅付近で処刑されましたが、派立の人々は自分たちの犠牲となった清十郎を悼み、処刑場所に建立した碑が現在の「三界万霊塔」であるとする内容です。

逸話の真偽は定かではありませんが、現在でも派立地区の人々によって「清十郎地蔵」の名のもとに供養されています。なお同碑は、元々建立されていた場所から、昭和5年津軽鉄道開通によって駅通りに移され、さらに昭和53年ころ現在地に移されたとされます。

金木朝日山地区の飢饉供養塔
金木駅付近の供養塔群
金木駅付近の飢饉供養塔
2008/09/03

今泉墓地から見た日露戦争と近世製鉄!

今泉集落墓地前には大きな石碑があり、「顕忠院彰誉義功居士 故 陸軍歩兵上等兵 三上常吉」と刻まれています。日露戦争に出征した陸軍上等兵三上常吉氏(今泉出身)は、明治38年(1905)3月16日奉天付近にて戦死し、勲八等白色桐葉章ならびに功七級金鵄勲章を授与されました。

日露戦争における戦死者慰霊祭祀は、国家靖国神社を頂点として、各県ごとに設置された護国神社、市町村ごとに建立された忠魂碑によって担われました。中泊地区では、帝国在郷軍人会各村分会などによって建立された忠魂碑が、中里神明宮(旧中里村)・富野桜包公園(旧富野村)・上高根稲荷神社(旧内潟村)・小泊小学校(旧小泊村)に残されているほか、三上常吉氏のような個人の忠魂碑が集落墓地前面に建立され、集落単位で祀られる例も認められます。

また今泉集落墓地にはもう一つ興味深いものがあります。墓地入口の右手に小さなお堂があり、通常は扉が閉じられています。御地蔵様でも祀られているかと思いきや、御神体は何と錆びた鉄の塊です。類例を調べてみると、同様の信仰は、南部鉄器の産地である岩手県九戸地方にも認められるようです。同地方では最初の鍛冶操業(初湯;はつゆ)で生成された「初金(うぶがね、おぼがね)」を御神体とする金山神(金山さま)信仰が普及していたとされます(岩手県立博物館 1990『北の鉄文化』)。

『内潟村史』には、今泉唐崎遺跡(安倍太郎屋敷)内にある宝塔様(七面様)に、鋳流しの鉄を掲げた扁額が奉納されているとの記述があります。現在は見あたりませんが、あるいはこれらが現在の今泉墓地お堂の御神体である可能性もあります。

これらの御神体を祀ったのはどのような人々だったのでしょうか。今泉地域には、近世弘前藩の鉄山があったことが知られています。『中里町誌』所載の『鉄山由来(鉄吹手記)』によれば、(記録時から)80〜90年ほど前に今泉村領「台所」においてはじめて鉄を吹立、以後中村・朴木沢・小国山・湯之沢・夏山・舞戸等を転山し、近年柏木沢において吹立を行った云々といった記述があります。

中村・舞戸は現鰺ヶ沢町、小国山は旧蟹田町に比定されますが、それ以外についてはすべて今泉地域に現存する沢名となります。今泉を中心とする鉄山の操業期間が1世紀近くに及び、定期的に場所を変えながら鉄生産を行っていた様子がうかがわれます。ちなみに、今泉地域にはこのほかにも鍋越沢・金平沢・タタラ沢・出羽金山沢・金山沢等の製鉄に関連がありそうな沢名が残されています。

実際、今泉川母沢の右岸台地並びに谷部に位置する今泉母沢遺跡では、大量の鉄滓ほか肥前磁器・瀬戸陶器などおおむね19世紀代と推定される近世陶磁が表採され、近世の製鉄遺跡と考えられています。今泉集落墓地お堂の御神体は、これらの製鉄職人の信仰を物語るものとも考えられます。

今泉集落墓地と三上常吉氏墓碑
入口付近のお堂
御神体として祀られた鉄
今泉母沢遺跡に残された山神様鳥居
今泉母沢遺跡採集鉄滓
今泉母沢遺跡採集陶磁器

HOME