博 物 館 ニ ュ ー ス
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2009/9/30 ジョブ・シャドウ&博物館実習の受入れ!
7月から8月にかけて、博物館では青森県立中里高等学校1学年7名によるジョブ・シャドウ、大学生3名による博物館実習を受け入れました。前者は職場体験、後者は学芸員養成課程の一環として行われたものです。
高校生を対象としたジョブ・シャドウでは、博物館の日常業務を体験してもらいました。地道な作業が多かったにもかかわらず、積極的に取り組んでいただきました。
大変だったのが二週間にわたる博物館実習。発掘実習に始まり、地域文化財巡見・博物館資料整理作業・教育普及活動実習・企画展立案&プレゼンなど、汗だくで盛りだくさんのにメニューをこなしていました。
開館前の清掃(ジョブ・シャドウ) 着物の糸を外す細かい作業(ジョブ・シャドウ) ワークシートづくり(ジョブ・シャドウ) 発掘実習(博物館実習) 分館見学(博物館実習) 拓本作業(博物館実習) 展示実習(博物館実習) こども教室(博物館実習) 企画展立案&プレゼン(博物館実習) 2009/8/22 8体目の「貞伝仏」発見される!
浄土宗本覚寺(今別町)第五世住職貞伝上人が、江戸中期に製作したいわゆる「貞伝仏(万体仏)」。2008年11月16日付博物館ニュースで、中泊町では7体確認されていることをお伝えしましたが、このほど8体目となる「貞伝仏」が発見されました。
所有者は宮野沢地区にお住まいの三上さん。中泊町広報に掲載された「貞伝仏」写真が、先祖代々祀ってきた仏像に酷似していることに気づいた三上さんが博物館に持参し、「貞伝仏」であることが確認されたものです。背面の「貞傳作」の刻書からも本物に間違いありません。
市町村別では、「貞伝仏」が配布された誓願寺のある弘前市で12体確認されていますが、中泊町の8体はこれに次ぐ数となります。なぜ中泊町に多くの「貞伝仏」が残されているのかは不明ですが、北海道松前町・福島町でも多くの「貞伝仏」が発見されていることから、津軽海峡を挟んだ津軽・渡島両半島が貞伝仏信仰の中心となっていたことは確かなようです。
2009/8/8 速報!坊主沢遺跡試掘調査(第3次;最終調査)
7月21日より始まった中泊町坊主沢遺跡試掘調査が、このほど終了しました。同調査は、中泊町教育委員会が2ヶ年計画で実施しているもので、 今年度が最終調査となります。坊主沢遺跡は、小泊港を眼下に見下ろす丘陵先端部に所在します。丘陵の北側と西側には小川が流れ、水に恵まれた立地と言えそうです。平成13年度小泊村教育委員会(当時)によって始めて発掘調査が行われ、縄文時代前期から平安時代にかけての遺構が重複著しく発見されました。
遺構内外からは、縄文時代前期(約6,000〜5,000年前)・中期(約5,,000〜4,000年前)・後期(約4,000〜3,000年前)・晩期(約3,000〜2,500年前)、弥生時代前期(約2,500年前)・中期(約2,000年前)、また平安時代(約1,000年前)の遺物が出土していることから、大昔から断続的に台地が利用されてきたことがわかります。なかでも主体を占めるのが弥生土器です。弥生時代の遺構は、土坑・配石遺構のみですが、捨場と考えられる北東斜面から、多量の弥生土器が出土したことから、近接した地点に居住域の存在が推定されます。
昨年度ならびに今年度試掘調査は、捨場と考えられる北東斜面を対象に行われました。表土を剥ぐと、すぐに弥生中期の包含層にあたります。緩斜面に夥しい弥生土器が累々と堆積しています。ようやく弥生土器を取り上げたかと思うと、今度は縄文前期の包含層です。やや傾斜がきつくなった法面に、やはり大量の縄文土器が堆積しています。実質8日間の調査で、数十箱に相当する土器が出土しました。今後の整理作業が悩みの種ですが、まずは無事に調査が終了しほっとしているこのごろです。
眼下に小泊港を見下ろす台地 表土を剥ぐとすぐに弥生時代の包含層 慎重に精査を行います 緩斜面に廃棄された弥生土器 弥生土器包含層の下には縄文層が・・・ 調査終了を記念して 2009/6/2 中泊町指定文化財「津軽伝統 金多豆蔵人形芝居」とは!
「津軽伝統 金多豆蔵人形芝居」(無形民俗文化財)が、「西願寺青玉」(有形文化財)・「阿弥陀如来像貞伝金仏」(有形文化財)とともに、町指定文化財に決定したことについては速報でお伝えしました。今日はその「金多豆蔵」について、やや詳しくお伝えします。
「金多豆蔵」、実は津軽弁で「きんたまめじょ」と発音します。ある程度年配の方であれば、あえて説明する必要がないほど、津軽地方ではポピュラーな存在でした。単なる人形劇というよりも、観桜会・さなぶり(虫送り・荒馬ほか)・縁日などの祭りと並ぶ、農村地帯の一大娯楽だったといってもよいかも知れません。
「金多豆蔵」は、明治40年(1907)青森県つがる市(旧木造町)亀ヶ岡の野呂粕次郎(英昭)氏によって創始されました。当初「館岡人形芝居」として演じられた後、大正初期には名称が「金多豆蔵人形劇」と改められ、青森県内ほか東北・北海道各地を巡演し、次第に人気を呼ぶようになります。
昭和11年(1936)には、五所川原市藻川出身の木村幸八氏が一座に加わるとともに、昭和16年(1941)野呂粕次郎氏の他界を機に二代目を襲名することになります。木村幸八氏の徴兵により、戦時中は公演休止を余儀なくされますが、昭和21年(1946)活動を再開、当時娯楽の少なかった農村ほかでは、一座の公演は好評をもって迎えられ、「金多豆蔵」人気は最盛期を迎えます。
しかしながら高度経済成長時代に入ると、娯楽の中心はしだいに映画やテレビに移行し、一座の公演活動は縮小の一途を辿ります。そうした中、昭和47年(1972)には、伝統人形芝居普及の功績により、五所川原市より無形文化財の指定を受けることになります(*平成19年(2007)保持者木村幸八氏の死去にともない、指定解除となりました)。
一方木村幸八氏が金多豆蔵一座で活躍していた頃、中泊町田茂木字若宮(通称「竹田」)在住の実弟木村重成氏は、「勘太金兵人形一座」を旗揚げし、独自に公演活動を行っていました。やがて本業の農業が多忙となり、同一座の公演活動は休業状態となっていましたが、昭和56年(1981)から6年間、木村重成氏ならびに子息木村巌氏、は木村幸八氏主宰の「金多豆蔵一座」に加わり、その技芸を会得する機会に恵まれます。
平成4年(1992)には、木村厳氏が「勘太金兵人形一座」を復興、その技量は木村幸八氏に評価されるに及び、同6年(1994)には「金多豆蔵人形一座」三代目襲名を許されました。現在三代目木村巌氏は、姉三上輝枝氏とともに、津軽地域ほか県内外で精力的に公演活動を行っています。このように、「金多豆蔵」は約一世紀にわたって相伝されてきた、津軽地方を代表する人形劇といえるでしょう。
演目は、狂言や喜劇など多彩であるが、勧善懲悪をテーマとした分かりやすい内容のものが主体です。また津軽地方の風土や、時々の世相が巧みに取り入れられ、しかもそれらの台詞を津軽弁で語るという独自性が認められます。とくに座名にもなっている主要キャラクター「金多」と「豆蔵」の掛け合いは抱腹絶倒、開幕から閉幕まで笑いの途切れることがありません。といっても、津軽弁がわからない人でも十分に楽しめる人形劇です。機会がありましたら、ぜひライブでご覧下さい。
昨年8月中央公民館で開催された「金多豆蔵」。開幕を待つ人々。昔ながらの小屋掛けと幟旗が、祭り気分を盛り上げる。
器用に幕を開けながら登場し、開演の口上を述べる人形/既にこの段階から会場は笑いに包まれる。
一幕目/かけあい漫才「出稼金多」 (約10分)酒好きでおっちょこちょいの金多と、ケチだが尽くすタイプの豆蔵の 二人が、出稼ぎにまつわる漫才を繰り広げる。
二幕目/津軽の浮世話「弥三郎のヨメとアバ」(約15分) 舞台は津軽民謡「弥三郎節」と同じく木造新田。姑と嫁による、女同士の闘いから和睦までを人情味溢れる名調子で演じる。
三幕目/津軽の伝説「鬼神お松」(約25分)仇討ち話であるが、山賊3人(女頭領お松・頭・舎弟)、夏目弾正白三郎息子、金多・豆蔵の6人もの出演者の早身替わりや演じ分けが見所となる。
四幕目/津軽の踊り「人形手踊り」(約5分) テンポの良い津軽民謡にあわせて、二人の踊り子が踊りながら、タスキをかけたり、傘を回すなどの妙技を披露する。満開の桜の背景が美しい。